『万葉集の考古学』(1984)その3

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森浩一編『万葉集の考古学』筑摩書房、1984年
NHKラジオの古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」(24)で鉄野昌弘氏が藤原京と平城京を取り上げていた中で、『万葉集』巻19の以下の歌を飛鳥浄御原宮ではなく藤原京の歌であると解説していたのを聴いて、前に読んで気になっていた本を読み返してみた。
網干善教氏が「飛鳥浄御原宮造営の歌」(『万葉集の考古学』)で万葉集の歌を考古学していたのである。
以下、恒例によって、『万葉集』は万葉仮名で載せる。
壬申年之亂平定以後歌二首
皇者 神爾之座者 赤駒之 腹婆布田爲乎 京師跡奈之都 4260
右一首大将軍贈右大臣大伴卿作
大王者 神爾之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成都 作者不詳 4261
右件二首天平勝寶四年二月二日聞之即載於茲也
(『白文万葉集 下巻』佐々木信綱編、岩波文庫、1930年)
歌については、網干善教氏の読み下しを載せておく。佐々木信綱と同じである。
大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居(たゐ)を京師(みやこ)となしつ 4260
大君は神にしませば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を皇都(みやこ)となしつ 4261
網干善教氏はこの歌は天武天皇の飛鳥浄御原宮であるとするのが通説と書いていた。しかし、「この「都」を飛鳥浄御原宮であるとするならば、「赤駒のはらばふ田居」「水鳥の多集く水沼」という「湿田」あるいは「沼」の存在を確証しなければ、この歌は文学として理解できても歴史としては理解できない」(p.9)という。そして歌にあるような条件をもとに飛鳥浄御原宮の場所を検討するのであるが、該当するような場所はなかったのである。
近年の発掘の結果、飛鳥浄御原宮は岡の伝飛鳥板葺宮跡の上に造られたと考えられるようになった。そうなると、田居や水沼を整地してゼロから京師(みやこ)や皇都(みやこ)を造ったのは、明日浄御原宮ではなく藤原京と考えられるようになった。素直に歌の京師や皇都を宮殿だけの宮ではなく条坊をもった宮都であると考えれば、謎が解けるのである。考古学は発掘により通説がひっくり返ることはよくある話である。

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