森浩一編『万葉集の考古学』筑摩書房、1984年
森浩一氏の「磐代と有間皇子」を読むために取り寄せたのであるが、「気多大社と寺家遺跡」を上田正昭氏が書いていたので、ラッキーでもあった。
「有間皇子は、孝徳天皇のたった一人の皇子で、皇位継承の有力な候補であるにもかかわらず、父の死とともに、斉明女帝、中大兄皇子の政治体制に身をさらすことになる。657年、つまり有間皇子18歳のときに、いつわり狂い、その病をいやすため紀(牟婁(むろ))温泉に行き、帰って来て、かの地を見ただけで病がなおったとおおいに効能をいいふらし、翌年、天皇は中大兄らと紀の温泉へ出発している。天皇や中大兄らが都をあけたあいだに、留守官の蘇我赤兄が有間皇子に天皇の三つの失政をあげて謀反をすすめるが、それは赤兄らの予定された計画であったらしく、有間皇子らは捕えられて紀の温泉へ送られて、中大兄な訊問をうけたあと、藤白坂で殺害されたという」(p.416)。
中大兄にとって邪魔な存在であることから始末されたのであろうが、萬葉集には同情的な歌が載せられている。
萬葉集 2巻
挽歌
後崗本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇
有間皇子自傷結松枝歌二首
磐白乃 濱松之枝乎 引結 眞幸有者 亦還見武 141
家有者 笥爾盛飯乎 草枕 旅爾之有者 椎之葉爾盛 142
有間皇子の歌 141と142は挽歌ではないが、挽歌としている。森浩一氏は歌の詠まれた時期を「①657年の牟婁温泉行きのときに詠んだ、②658年に牟婁温泉へ護送の途中に詠んだ、③中大兄による訊問が終わって、藤白坂への途中に詠んだ、の三つの状況が考えられるが、私は①の657年説をとる。というのは、『日本書紀』にあらわれた史料によっても、この事件は658年の偶発的なものでなく、前年から計画されたものであろう」(pp.416-417)という。
歌の調子は旅の感傷を伝えるという解釈で①でもよいが、題詞を信じれば、突然で旅の準備もなく、先行きに強い不安を覚えた歌として②となると思った。
森浩一氏は「塩屋連鯯魚(しおやのむらじこのしろ) を日高地方の豪族とする前提にたって有間皇子の事件をみると、657年に牟婁温泉へでかけるのは、もちろん塩屋連鯯魚のすすめによったのであろうが、病気の治療を目的としたものでなく、天皇・中大兄をこの狭隘な土地へ誘いこむための遠大な計画にもとづいているとするほうが理に合う」(p.419)とまで書いている。
有間皇子事件で塩屋連鯯魚が斬られたこととも関係するのであろうか。有間皇子が天皇・中大兄の留守中に蘇我赤兄に唆されたというより、すでに遠大な計略があったと考える方がロマンがある。
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