『姿なき司祭』(1970)その2

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埴谷雄高『姿なき司祭 ソ連・東欧紀行』河出書房新社、1970年

古書と肴 マーブルの店主の話では、大学の卒論が埴谷雄高だったという。その関係で埴谷雄高関連の書籍が多いのであった。『死靈 第9章』まで辿りつけない人がほとんどの中、店主は死靈(しりょう)は第5章からが面白いという。こちらは挫折組なので拝聴するのみである。

埴谷雄高がドストエフスキイの生家を見学する話も、言葉の通じないもどかしさから始まるが、ここにも《カフカ的状況》が出現しているのであった。

「こうして第一の遭遇者から仔細に教えられたにもかかわらず、私達の運転手はなお不安そうな、自信なげな、不確かな顔付で窓のそとを眺めながら進んだ。フロントグラスの前の計器の上には、私に渡された小さな細長い紙片が、いってみれば、彼の精神を全的に把握している絶対命令者かの厳格な指令のごとくに置かれていた。彼を導いているのは、確かに、この一枚の小さな紙片に書きこまれたまま身動きもせず蹲っている黒い虫のようなロシア文字だけであって、彼のすぐ背後にいる私達は話のまったく通ぜぬ一種の抽象存在として窓からそとの街路を確かめている彼と関わりもなく、その運転席と乗客席のあいだの関係を無理やりにいえば、ヘッドライトと暗黒物質くらい断絶しているのであった」(P21)。

埴谷雄高のような描写をする人はもうでるまいと思っているが、古くさい文章とはなっていないと感じる。それは、私が老人であるからであろうか。若い人の文章を読まない私の文章も古くさいものになっているのかも知れない。自分を客観的に見るのは難しいものだ。

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