『姿なき司祭』(1970)その3

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埴谷雄高『姿なき司祭 ソ連・東欧紀行』河出書房新社、1970年

装幀は粟津潔である。箱の裏の文字が鏡文字になっているのが珍しい。出版社名まで鏡文字にしてしまった。ISBNコードと定価だけが通常である。枠内を鏡文字にした意図はなんであろうか。

モスクワでドストエフスキー博物館へタキシー(埴谷雄高の用語)で向かったが、言葉が通じずに退散した埴谷雄高は、レニングラードでドストエフスキーの墓を詣でた後、モスクワ国際空港から、再度ドストエフスキー博物館へ行くのである。しかし、前回入れなかった理由は休館中であったことがセルゲイ氏によって知らされる。ロシア語も読めない埴谷雄高がドストエフスキーについて書いた本を旅の目的の一つとしてドストエフスキー博物館に寄贈することにしていたため、インツーリストのセルゲイ氏に本を託したのだった。

そして、プロペラ機でポーランドのワルシャワへ移動した。ワルシャワではワルサー・ゲットーの跡とヴィスツラ河をみて、ハンガリーのブダペストではハンガリー事件を回想する。

埴谷雄高がプラハにいた時期はチェコスロバキアのプラハの春の当たっていた。しかも、2週間後にソビエト軍の侵攻が始まるのである。埴谷雄高も辻邦生も緊迫感を感じても危機意識に乏しい。見物とビールを楽しんでいるのだ。

「恐らく東方と西方がこれほど異様に混淆して建築物を奇異な、非均斉的なかたちにまでもたらしたのは、この国以外では殆んど見られぬ事態であると思われる。カルル橋の両端は石の色もものさびた古い塔になつているが、一見しただけで、一種蒼然たる鬼気が覚えられ、何らかの魔的なものが抗しがたくあたりを支配している感じであった。思うに、それは私達が通常見かけぬ異常なほどの非均斉的な構造からうける印象に違いなかった。この国における建築の様式が、西欧風に、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックといつたふうに規定されるのは恐らく誤りで、或る新しいチェッコ独特の様式名をつけねばならないとさえ、素人の私にも異様に思われたのであった」(P175)。

プラハは世界遺産となった。それだけ、建築様式の違う建物が残っている都市だ。埴谷雄高でなくても面食らうだろう。長い歴史を持つカルル橋(カレル橋)はゴシック様式の橋塔と後に橋の両側に造られた30体のバロック様式の彫像からできている。

「私達は、偶然、夕暮の這い寄りはじめたプラハの町の古い中心部へ出てきたのであったが、この町の建物のすべてが暗いこともまた異様なほどであつた。確かにそこにはひとが住んでいる住居であるのに、どの建物の四階、三階、二階の窓をみても、そこが魔法の暗い森ででもあるように不思議なほど燈火がついていないのであつた。高い古い建物と建物のあいだにある真直ぐには通つていない、ゆるくうねつた道を歩いている人影もまつたくみかけず、この町が一種の幻怪味を帯びた不思議な街、そして、あのカフカの町であることが、そこを歩いてみると、歴然と解るのであつた」(P176-177)。

この章のタイトルが「魔法の町」となったのももっともだと思う。

プラハからベルリンへそしてストックホルムへ飛び立つことろで、社会主義国紀行は終わる。

この間の辻邦生の紀行を確かめたくなったが、今夜はもう遅くなった。

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