『老子入門』(2002)

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楠山春樹『老子入門』講談社学術文庫、2002年、2004年第3刷

書誌情報

『中国の人と思想4 老子』(集英社、1984年)を底本として、1993年、湖北省荊門市の郭店楚墓から「竹簡老子」が出土したことから、解説部分を全面的に書き改めたほか、巻末に付した「謎の人、老子」を削除した。

コンセプトは「有名な言葉を中心として、『老子』の思想を現代的意義にも留意しつつ平易に解説する」とある。

『老子』の本は数多い。しかし、著者名をみたら買えない本ばかりである(笑)。みんなの『老子』状態なので、『老子』を読み比べながら、良し悪しを判断できるようになるのは先だと思わざるを得ない。

『老子』が無為によって処世が成り立たないことは百も承知である。それなのに、無為と理想とし柔弱謙下により不敗の道を説くのは何故なのか。

知によって競争するよりも競争しないことによって生きる術を考えているのだろう。

道の道とすべきは常の道に非ず(第一章)

楠山春樹氏の説明は儒家批判として読む。

「要するに、「道可道」とは世間一般にいう道、たとえば、儒家の仁義の道、先王の道の類であって、それは一党一派にしか通用しない道であり、時と所とを超えて通用する「常道」ではないというのがこの句の意味である」(P99)。

「もともと論理的な文章ではなく、「道」の賛歌とでもいうべき感覚的文章になっているので、解説にも限界がある」(P100)。

そう説明してもらうと肩の力が抜けるような気がする。

鉢屋邦夫氏の『老子』の注では朱子学的な宇宙論を感じてしまうのは子安宣邦先生の『朱子語類』の講義を聴いて半端に理解しているせいだろうか。『老子』解釈に「理法」はないだろう。

「はじめの「道」は、日常的に言われる道理としての「道」であり、次の「道」は動詞で、「道」には「言う」という意味もあるので、そう訳す場合もあるが、次の「名」とも対応するので、「道とする」という意味に解した。最後の「道」は老子哲学の根本概念で、二十五章に「天地に先だちて」存在するといわれるような、宇宙を構成する根源的な実在であり、理法である。変化し運動するので「不変」ではないが、実体として常在する。「常」は、帛書では「恒」であり、前漢の文帝・劉恒の諱をさけて、「常」としたもの」(『老子』P12-13)

楠山春樹氏の『老子入門』から入り直すことにする。

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