布目潮渢『つくられた暴君と明君 隋の煬帝と唐の太宗』清水新書、1984年
谷沢永一の『いつ何を読むか』KKロングセラーズ、2006年をパラパラと読み直していて引っかかった。
中務哲郎・大西英之『ギリシア人ローマ人のことば』(岩波ジュニア新書、1986年)を人間社会の不平等という難問の由来として紹介した文章なのであるが(pp.75-78)、『フェニキアの女たち』(『ギリシア悲劇Ⅳエウリピデス(下)』松平千秋、ちくま文庫、1986年のことだと思う)のエウリピデスことばとして「人間の平等とか公平とかいうものは言葉としてあるだけで、実際には存在しないのだ」を引用したあとはもっぱらルソーの『人間不平等起源論』に話題が終始するので、本書は全く記憶に残っていなかった。
今回、「支那(チャイナ)の正史こそどれほど偽りに満ちているかを痛感させられる」(p.75)というくだりでピンときてAmazon でポチッた。
中華人民共和国の偽りの歴史は今に始まったことではない。布目潮渢は『茶経』(講談社学術文庫、2012年)くらいしか知らなかったが、果たして探せるかどうか。ブログは2014年9月以降の本でないと載っていないので、あやふやな記憶に頼るしかない。
「楊広と李世民はかなり異質の皇帝のようである。しかし実際には、楊広の母と李世民の祖母は姉妹で、血縁関係もかなり濃い。またその祖先も両者ともに北方遊牧民である鮮卑族か、あるいは漢人であったとしても鮮卑化した漢人であって、鮮卑拓跋部の立てた北朝後半期の北周において勢威をはった支配集団の出身である。またこの二人はともに次男であり、兄の皇太子を殺して帝位についた点も共通している。ただ二人の結末として、楊広は隋の亡国の君になったのに対し、李世民はそののちおよそ二五〇年にわたる唐朝の基礎を固めた点は大きく相違している」(pp.3-4)。
この本の眼目は「たんにその暴君明君の面だけではなく、その陰にひそんでいるそれぞれの反対面にも眼を向け、またどのようにして暴君明君が史料的に形成されていったのかの点にもできるだけ着目して書いていきたいと考えている」(p.4)ことであろう。期待できるが、史料の点で限界も見えている。敗者は語りえないのである。
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