『日本の家』(2015)

Goinkyodo通信 読書時間
中川武『日本の家』角川ソフィア文庫、2015年、kindle版
NHKラジオの「私の日本語辞典」の2021年11月は早稲田大学名誉教授・博物館明治村館長の中川武氏の「日本の”家”を象徴することばたち」だった。この番組は秋山和平アナウンサーの話術で毎回楽しませてもらっている。話を聴いている内に本も読みたくなるのが人情というものである。建築の話となれば絵や写真がないと想像力にも限界がある。それだけ日本の伝統的な建築は目にしなくなったということだ。ここで取り上げられた土庇や押板は知らなかった。
三和土(たたき)について、旧韮山代官所跡の江川邸が取り上げられていた。私が知っているのは韮山町だが今は伊豆の国市という。以前、訪れたときは大黒柱と竈が記憶に残っている。しかし、この母屋について白井晟一が書いているようなイメージは浮かばなかった。韮山反射炉を見るのがメインだったので、江川邸は熱心に見なかったのだろう。この時はタクシーで回ったので、尚更だったのかも知れない。乗務員さんには先生に思われていたらしく、詳しく説明してくれただけでなく、予約もないのに寺の知り合いに頼むようにして、色々と見せてもらったのである。
中川武氏も書いていたが、白井晟一氏が江川邸を書いた文章は記憶にあった。
中川武氏の文章を引用してから、白井晟一氏の文章を引用する。
「伊豆韮山町(現、国市)の江川家住宅は、大地から生え出たような木太い柱群や荒々しい小屋組架構など、豪壮な民家として注目されてきた。たとえば建築家・白井晟一は、茅の山が動いてきたような茫漠たるその屋根や、洞窟にも似た土間から板間へと続く大空間に、陣馬の蹄の響きがこもっているのを聞き取っている。
私も江川家の大土間が重要だと思っている。光の具合によっては、玉石がゴロゴロする河床のようでもあり、あるいはビロードの深い滑らかさのようにも映る土間の表面は、長い生活の歴史を刻む上で、これ以上ふさわしい素材はないと思えるくらいの土である。つまりこの土間の土は、逞しさと融通無碍、そして絶対的なやさしさとでもいい表したくなるような表情を潜ませている。その原因として、ふてぶてしいまでの大黒柱(部位「大黒柱」)や土壁の粗さ、小屋組架構が醸し出している効果ももちろん考えられようが、何といっても、長い間使い込まれた三和土が発散する雰囲気によるところが大なのである」(「境界空間 三和土」より)。
白井晟一の文章は長いが大事な文章であるので引用する。
「私は長い間、日本文化伝統の断面を縄文と弥生の葛藤の中で抱えてみたいと考えてきた。 一建築創作家としての体験である。ギリシア文化におけるデュオニソス的・アポロ的対立にも似た、縄文・弥生の宿命的な反合が民族文化を展開させてきたという考え方は、 究覚では日本国有な人間、歴史性に日本的形姿として定着させたアポステリオリなものの偏重への反省であり抗議である。 さて流行するジャポニカの源泉となり、日本の建築伝統の見本とされている遺構は多く都会貴族の書院建築であるか、 農商人の民家である。 江川氏の旧韮山館はこれらとは勝手が違う建物である。 茅山が動いてきたような茫漠たる屋根と大地から生え出た大木の柱額、 ことに洪水になだれうつごとき荒々しい架構の格闘と、これにおおわれた大洞窟にも似る空間は豪宕なものである。これには凍った薫香ではない逞々しい野武士の体臭が、優雅な衣摺れのかわりに陣馬の蹄の響きがこもっている。繊細、閑雅の情緒がありようはない。 見物人がためつがめつするような視覚の共鳴をかち得る美学的行為はどこの蔭にも探せないから、保護建造物には指定されないし、もちろんジャポニカの手本とはならぬ。それに機能といえばこの空間は生活の智恵などというものではない。逆算の説明は御免蒙るものだ。 だから文化の香りとは遠い生活の原始性の動きだけが迫ってくる。 けれども蛮人の家ではない。 遠くは地方の一豪族であったか野武士の頭領であったか知らないが、 近代戦術の創始者であり、すぐれた経世家として日本海運の契機を作った江川太郎左衛門という立派な武士の系譜をつないできた居館である。 虚栄や頽廃がないのは当然だが、第一、民家のように油じみた守銭の気配や被圧迫のコンプレックスがないのは何よりわが意を得たものである。 私はかねてから武士の気魂そのものであるこの建物の構成、 縄文的な潜力を感じさせるめずらしい遺構として、 その荒廃を惜しんでいた。 最近は蟻害ことに激しく、余命いくばくもないといわれているが、「友よそんな調子でなく、もっと力強い調子で」と語ってくれるこのような建物は何とかして後世へ伝えたいものだと思っている」(「縄文的なるもの 江川氏旧韮山館について 白井晟一 1956年7月」『白井晟一 精神と空間』株式会社青幻舎、2010年、pp.6-7)。
圧倒的な表現である。しかし、白石晟一氏がいう縄文的なるものは何だろうか。中川武氏によると掘立柱建物しかない古代に、大陸の仏教建築が大きな影響を与えたという。それ以前は竪穴式住居に住んでいた。縄文、弥生は技術の違いはあるにせよ竪穴式住居である。確かに江川邸は禅寺の庫裡の太い柱群を思わせる。中川武氏は大黒柱ができるのは江戸時代頃といっていたが、江川邸は1600年頃建てられたとwebサイトにある。力強さを縄文的というのだろうか。建築の技術の発展の結果としてある構造をもはや縄文的とか弥生的とかはいわないだろう。そもそも縄文時代という概念は明治時代に発掘された土器を基に作られた概念である。
この文章の影響力があったのだらうか。
1958年江川邸の母屋が国の重要文化財に指定され、
1993年に書院、仏間、蔵、門、塀、神社が追加指定された。現在、母屋の屋根の葺き替え工事中である(旧重要文化財 江川邸のwebサイトより)。
http://www.egawatei.com/index.html#

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