宇波彰『ラカン的思考』作品社、2017年
『ラカン的思考』は発売当時気になっていた。しかし、宇波彰(うなみ あきら)氏との接点がなかったので手に取ることはなかった。
「本書は、最初に章立てを考え、目次を作り、その目次に従って内容を埋めていくかいうようなプロセスで書かれてはいない。書いていくと、何が問題であるかがわかってくるという方法によっている」(P231〜232)。
このプロセスを宇波彰氏は「「意味はあとから作られる」という、きわめて「ラカン的な」思考の現実化である」(P231)と書いている。
書くことによって自分が何を書いたのかわかるという経験は普通ではないと考えるが、理解できないわけではない。私は箇条書きに基づいて書くことは仕事の時しかしない。随筆のように、心に浮かんだことを書きながら、自分は何を書きたいのか、本を読めば書くことはいくらでもあるけれど、そのなかから、何かを書いて様子をみてみるという経験がある。思ったことが全て言葉になるようには訓練されていないので、言葉にならないときもある。自分の言葉にパラフレーズできなければ読めていないことになる。
本は考えを引き出すきっかけである。
子安宣邦先生の東大の同期の宇波彰氏の追悼文をブログで読んだ時、その場で、Amazonへ注文した。接点はあったのだ。
ラカンはどう読んだら良いか分からないので放って置いた。急に読むことになって、やはり戸惑う。書評ではないこの雑文は本とどう付き合ったかの記録である。
本書は10章からなる。各章はいくつかの節に分かれている。谷沢永一氏によれば、目次が細かいことが良い本の目安であった。しかし、この10章の構成はどうだろうか、第「1章 あなたは存在しない」 と「第10章 フィルター・バブル」から論理的な繋がりは見えてこない。
はしがきは後から書くことが多いので、全体を俯瞰しているだけに難しい。
「本書において私が目指したのは、哲学的な思考の探究である」(P1)。
ラカンのことを書いた本ではない。
「本書では、しばしばフランスの思想家・精神分析家ジャック・ラカン(1901〜81)に言及している。それは、私の思考にこのラカンが少なからぬ影響を与えているからである。ラカンは私の思考に多くの点で示唆を与えてくれたが、しかし、本書はけっして「ラカン入門」ではなく、ラカンの思想の祖述でもなく、またラカンについてのアカデミックな研究でもない。(省略)私が注目して展開した論点は、通常のラカン理解によるものとはかなり異なっている」(P1)。
「私が「まともな」ラカン解釈とは異なった見方をとっているからである。その「まともでない」見方を重視するという方法を、私はラカンから、またラカンを通して学んだと考えている。しかし、私の思考に示唆を与えているのはラカンだけではない。多くの思想家や、私の友人・知人たちとの対話を通して、私はさまざまな考え方を学んできた。どこまでがそのひとたちの思想で、どこからが自分の思想なのか、その境界はあいまいである。それどころか、一体「私の思想」というものがありうるのかという疑問を、私は捨てることができない」(P1-2)。
どこかで読んだような考えだと思ったら、養老孟司氏も同様な趣旨のことを言っていた。
「当然のことながら、記憶もずいぶん悪くなった。したがって、自分の考えが、はたして自分の独創であるのか、読書や他人の講演を聞くことによって、途中から頭に入ったものか、そこもいまでは、不明確になってしまった。現在私のものである意見が、自分の意見なのか、もともと他人の意見だったのか、そこがはっきりしない」(P12『形を読む 生物の形態をめぐって』(講談社学術文庫、2020年)。
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