『井筒俊彦 叡智の哲学』(2011)

読書時間

若松英輔『井筒俊彦 叡智の哲学』慶應義塾大学出版会、2011年、2014年第4刷

井筒俊彦の『意識と本質』(岩波文庫、1991年)を読もうと段ボール箱を開けたら、若松英輔氏の本が出てきた。これを読みながら、週末に心当たりの箱を開けて『意識と本質』を探そう。若松英輔氏の引用もページがないので本のどこに書いてあるか調べないといけない。

第六章 言葉とコトバ

第九章 『意識と本質』

第十章 叡智の哲学

井筒俊彦が使う「コトバ」が何であるかつかめないと読み続けるのが難しい。『意識と本質』にある「意識の構造モデル」をどう理解するかが重要だ。井筒俊彦は「コトバ」と「言葉」と使い分けるのは『意識と本質』以降であると若松英輔氏は云う。さらに「意味」がまたやっかいである。これらの「術語」を確認しながら読む準備をする。

若松英輔氏は云う。

「「意味」という言葉も、井筒俊彦が用いると、単語、文章、あるいは現象の指示内容ということに留まらない独自の術語となる。「意味」は混沌から生まれ出る存在の相貌、存在者の「顔」。一つとして同じものがない固有者である」(P379)。

若松英輔氏の指摘で「言語哲学としての真言」の講演録にあった「ヨハネによる福音書」に関する記述が削除されていたことが分かった。『意味の深み』に収録した「意味分節理論と空海」を読んでいて、「存在はコトバである」という命題にこれほど相応しいものはないと思われるが、何故か井筒俊彦は削除した。なお「存在」は絶対超越者の異名である(P221)。

若松英輔氏は井筒俊彦の訳を「言語哲学としての真言」から引いてくる。

「太始(はじめ)に〔中略〕コトバがあった。コトバは神のもとにあった。というより、コトバは神であったのだ。ありとあらゆるものがこれによって成り、およそ成り出たもののうち、ただひとつもこらによらずに成り出たものはなかった」(P219)

ギリシャ語による「ヨハネによる福音書」の最初にΕν αρχηι ην ο Λόγοςとある。「初めに言葉ありき」と昔は習ったが、αρχη(アルケー)は初め、始源、原理である。Λόγος(ロゴス)は言葉と論理。そのような日本語はないのでロゴスとする。すると「初めにロゴスがあった」とでも直訳してみる。ロゴスはキリストでありコトバであるとすれば、真言は大日如来でありコトバであると見事に符合する。

井筒俊彦が何故「ヨハネによる福音書」の記述を『思想』(岩波書店)に掲載する時に削除したのかは若松英輔氏も指摘以上のことは書いていない。

「「存在」が「存在者」を「創造」するとき、「存在」は「コトバ」として自己展開する。コトバとは事象が存在することを喚起する力動的な実在、すなわち存在を喚起する「エネルギー体」に他ならない」(P221)。

「コトバ」の比喩として若松英輔氏が以下に書いている。

「叡智(ヌース)も霊(プネウマ)も「心真如」も、彼には「コトバ」の姿をもって現れた。井筒俊彦の「コトバ」は、言語学の領域を包含しつつ超えていく。バッハは音、ゴッホは色という「コトバ」を用いた。曼荼羅を描いたユングには、イマージュ、あるいは元型が「コトバ」だった」(P222)。

「意味」もつかみきれない術語である。

「言葉は世界を意味的に「分節」する。また、意味分節はそのまま存在分節となる。なぜなら、「意味」とは事象に付される記号ではなく、「意味」が事象をつかむ、と井筒は考えるからである」(P228)。

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