『『パサージュ論』熟読玩味』(1996)

読書時間

鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』青土社、1996年第2刷

読書する時間が少なくなったと感じるこの頃、鹿島茂氏の『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社、1996年)を読む意味についてまず書いておかねばなるまい。

鹿島茂氏が「まえがき」で『パサージュ論』の書評を二つ書いたと書いていた。しかし、「それでもなにかまだ書きたりないという「残筆感」のようなものが強く残った」(P7)と書いてあったのが秀逸だったので、読みたいと思った。岩波書店の『パサージュ論』5巻本を読んでから鹿島茂氏の評論に行くのが真っ当な途であったが、こっちは老い先のない急ぎ旅だから、鹿島茂氏の読み方を確認しておきたいと思った。

ヴァルター・ベンヤミンは著作集を少し読んだけで、『パサージュ論』には手をつけていない。この本のようなモノを素手で扱えるわけがない。時間が経つのを待った。本を読むには忍耐のいるものもある。

「したがって、正確には、これを本と呼ぶことはふさわしくない。むしろ、ベンヤミンがいみじくもそう名づけているように、「仕事」と呼んだほうがいい、なぜなら、これは「書かれた」ことによって意味があるのではなく、「書きとめられた」ことによって意味をもつという点で、精神分析医の「仕事」に近いからだ。そう、これはいかにも、精神分析医が患者の夢を書きとめながら、それを分析・総合して抑圧の根源に迫っていくその過程にも似た、ひとつの可変的な形態をもった開かれた「仕事」なのである、というのも、それは、書物の本質である線的な時間性には決して還元できない重層的な範列性を帯びているからである」(P9)。

「開かれた範列性」を帯びた『パサージュ論』を「二〇世紀最大の思想的課題を秘めたゲーム・ブック」あるいは「本の形を取ったロール・プレイング・ゲーム」と鹿島茂氏は比喩で説明している。

範列性という言葉は難しいが、『パサージュ論』がいくらでも読み方が可能であることを言っている。ロール・プレイング・ゲームだとするならば、ゲーム攻略のために鹿島茂氏の攻略本の世話にならないわけにはいかない。

#鹿島茂 #ヴァルター・ベンヤミン  #範列性

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