『築地』(2007)

読書時間

テオドル・ベスター、和波雅子・福岡伸一訳『築地』木楽舎、2007年

本棚の奥にあった。2016年11月に場内が豊洲へ移転する。今年は築地魚市場の歴史が大きく変わる年だ。

まさか、買ってあったとは、といつも自分に呆れている。9年も放っておいたのか、たまたま、勢いで買ったのかは記録がないので分からない。634頁の大著である。

人類学者のテオドル・ベスターは築地の歴史を書きたいわけではない。TSKIJIは「取引や経済的制度の民族誌」として書かれた。「取引や経済的制度は、日本人の生活の文化的、社会的傾向に深く根付き、かつそれらによって形作られているからである。経済がーー市場がーーモノやサービス、金融資産のみならず、文化的、社会的資本の生産と循環によってできあがっている、その仕組みについて記した民族誌なのだ」(P10-11)。

したがって、移転する新市場とは別なものだ。翻訳者の福岡伸一氏は「築地の「効果」のすべてを銘した墓碑になるという事実だけである」と訳者あとがきに書いている。

経済的な資料は2001年までであり、ちょっと古くなったが、イルカといえばフリッパーもでてくるし、漫画なども懐かしいものが出てくる。著者は相当オタクである。批評している私はどうかと問われても、『美味しんぼ』くらいは読んだが、『将太の寿司』『築地魚河岸三代目』は名前くらいは知っているという程度である。

昨年暮に亡くなったベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」としての国家であるならば、「食文化においても、各国料理とは(各民族に)本質的とされる特徴を軸として組織されたもの、という想像が存在するといえる」(P228)という。

著者は米以外では水産物とみる。《タイ》が代表というわけだ。真鯛、真鯵など日本人ならば「真」について言及することも、英語ではなされないのが残念だ。

「英語の場合、「食文化(food culture)」などという表現を使うのは、おそらく人類学者やレストラン評論家くらいのものだろう。」(P228)という。日本語の「食文化」や「食生活」が普通に使われるのとは大きな違いだろう。

「日本以外の文化においては、食べ物といえば普通は火を通したものを意味するが、日本人にとっては、生あるいは火の通っていないものが食べ物である」(大貫・ティアニー・恵美子「The Ambivalent Self of the Contemporary Japanese」を引用しているのが興味深い。食が文化的なものであることを再確認する。

日本人が戦後を通じて他者と接触するなかで、自己の正統性を確認するものとして日本料理を意識したというくだりを読みながら、日本料理を説明してくれる本がないかと参考文献をめくったが、鮨の本はあるけど日本料理の本は見当たらなかった。

東卸を構成する仲卸業者・水産卸業者・売買参加者・配送所経営者のうち配送所経営者(約250)を茶屋と呼ぶ。「それぞれ小売店や飲食店を経営している常連客のために仲卸業者から荷物を受け取り、やがて客が引き取りに来るまで保管」(P463-464)する。この「代理業者を茶屋と呼ぶ行為ーーは、江戸時代の商人文化に遡る。ほかに、芸者を呼んで遊ぶ店や相撲の切符を一手に扱う業者も茶屋と呼ばれる」(P595 | 注)

著者の茶屋についての知識はライザ・ダルビー『芸者:ライザと先斗町の女たち』(1983年、翻訳1985年)からも得ていたのが分かる。

「想像の日本料理」について、TSKIJIを失う我々が考えていかなければならないことのようだ。

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