『白』(2008)その4

読書時間

原研哉『白』中央公論新社、2008年

今回は、言葉のコレクションをしている。

線を引きながら読んでいるのだが、章や節は不要だったかもしれない。線を引かない節もあったけど、何かないかと探してしまった。

本を読むことは、一様な頭の働きではない。本によっても読み方が異なる。吉川幸次郎の『読書の学』(ちくま学芸文庫、2007年)を読み返しているけど、著者の文体のリズムを読み取る話があった。古代の漢文は簡潔なので読み手の解釈が真逆になることもしばしばある。そうしたときに、リズムで肯定的感情を現すか、悲観的感情を現すかを区別する話もあった。

原研哉氏の文章を抜き出してみて、文脈なしに成立するのか少し悩んだ末に、増やすことで文脈が見えるようにしてみた。過剰に抜き出したことになる。

第三章(続き)

何も言わない

「極めて大事な決定をする時に、決定の対象となるものやことを直接指示せず、それを括弧にくるんで扱うという方法は、空白のコミュニケーションであり、エンプティネスの運用である」(P49)。

日本は「阿吽の呼吸」が理想とされるように「ハイコンテクスト」な状況でコミュニケーションがなされる。会話に含まれない情報を前提に会話が成立する。

白地に赤い丸の受容力

エンプティネスの例として日本の国旗が取り上げられる。

「日本の国旗は白地に赤い丸である。これはシンボルあるいはエンプティネスとは何かを考える上で、格好の事例と言える」(P50-51)。

「赤い丸には意味はない」(P51)。「それを誰がどう見立てるかという解釈のみがある」(P52)。

「オリンピックなどの表彰式でこれは、世界中の様々な人々の思いをあまねく受け入れて、掲揚され、大きな求心力を生む。この強烈な求心力がシンボルのコミュニケーションの力である。つまりシンボルの本質は受容力、すなわちエンプティネスそのものである」(P52)。

「悲しみも、屈辱も、希望も、平和も、相矛盾する多くの概念を黙して受容することで、日本の国旗は機能している」(P53)。

空と白

「空白の運用を意識的に行いはじめたその端緒を日本の歴史の中に探すと、室町中期の東山文化に目が止まる」(P53)。

このあとの茶の湯の美意識の話に続く。

茶の湯

「茶の道具は簡潔で美しい」(P54)

なぜ「簡潔」なものが美しく、強いのか。

「古来、人間は、装飾の稠密性に意味や力、そして美を見出した」(P54)。

「シンプルなものの様相に合理性を見つけ、そこに美や価値を意識したのは、西洋においてわずか百五十年ほど前のことである」(P55)。

「日本文化は応仁の乱を境に、一度リセットされ、義政の東山文化とともに再スタートを切る恰好になった」(P57)。

このあたりも内藤湖南の影響が大きいようである。しかし、歴史家の呉座勇一氏によると、近年、「応永・永享期文化論」に注目が集まっているという。義満の北山文化と義政の東山文化の間である。今まで、北山文化と東山文化とで室町文化を論じてきたことがおかしいのである。

和室の原形

慈照寺の東求堂の同仁斎という書院の話が語られる。「いわゆる「和室」と今日呼ばれている条件の全てがここにある」(P58)という。「茶室の源流とも呼ばれるこの簡潔な空間」(P58)に侘び茶の開祖、村田珠光(しゅこう)も訪れただろうという。茶の湯の話になり千利休の茶の湯に関する七か条の教えで終わる。

発想は空白に宿る

「「考える」あるいは、発想するという脳の営みそのものも、「思う」という能動性によってゼロから構築的に作られるのではなく、「問い」に無意識に反応することで成立するのではないかと僕は考えている。「我思う」の前に、目に見えない「問い」を置く。問いとは脳の中に何らかの拍子に生まれる空白である」(P62-63)。

脳は考えることをやめない。空白をつくっては埋めることを続けている。

独創的な問いに答えは不要

「独創性とはエンプティネスの覚醒力、すなわち問いの質のことである。独創的な問いこそが「表現」と呼ぶにふさわしく、そこに限定された答えは必要ない。それは既に無数の答えを蔵しているのであるから」(P65)。

白というより空白という言葉、エンプティネスの考察に終始したようだ。

『白』(2008)その5へ続く

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