原研哉『白』中央公論新社、2008年
第四章
推敲
「推敲という言葉がある。推敲とは中国の唐代の詩人、賈島の、詩作における逡巡の逸話である」(P68)。
「白い紙に記されたものは不可逆である。後戻りが出来ない」(P69)。
「思索を言葉として定着させる行為もまた白い紙の上にペンや筆で書くという不可逆性、そして活字として書籍の上に定着させるというさらに大きな不可逆性を発生させる営みである」(P68)。
これに対し、「現代はインターネットという新たな思考回路が生まれた」(P70)という。
Wikiはすべてが公開のなかで更新され続けていく知識の構築モデルである。ここには推敲の美意識はない。
白への跳躍
「無限の更新を続ける情報には「清書」や「仕上がる」というような価値観や美意識が存在しない」(P71)。
「一方、紙の上に乗るということは、黒いインクなり墨なりを付着させるという、後戻りできない状況へ乗り出し、完結した情報を成孰させる仕上げへの跳躍を意味する。白い紙の上に決然と明確な表現を屹立させること。不可逆性を伴うがゆえに、達成には感動が生まれる」(P71-72)。
白い紙を前にして心点を打つには勇気が必要だ。失敗したくないという気持ちや、上手に書こうなどという欲心があるうちはなかなか筆を取れないものである。
清掃
「美しさは創造の領域に属するものと考えられがちだが、何か生み出すのではなく、ものを拭き清めて、清楚を維持するという営みそのものの中に、むしろ見出されるものではないかと最近では思うようになった」(P72)。
禅宗の寺や庭を見れば、清掃の行き届いたものであることが分かる。
未知化
「僕らは「花」について多くの経験をしすぎているがゆえに、花のリアリティが分からなくなっている。(省略)多くの才能ある写真家が競って花の写真を撮るのは、花が美しいからではない。人の心を動かしてやまない対象物を、未だかつて誰も捉え得なかったイメージとして捉え直すことに惹かれてやまないからである」(P75)。
石元泰博やロバート・メイプルソープの花の写真を見たくなった。
未知化は「既知化し惰性化した知識を、根源の方に戻して感じ直してみること」(P75)である。
「未知化は白に通じている。白とは混沌に向かう力に逆行し、突出してくるイメージの特異点である。それは既知の混濁から身をよじり、鮮度のある情報の形としてくっきりと僕らの意識の中に立ち上がる。白とは、汚れのない認識である」(P76)。
白砂と月光
銀沙灘は清掃を重ねることでその美を保ってきた。
「この寺の清掃や手入れを営む職人は、定年を迎える日に一度だけ、潮音閣に登ることを許される」(P77)。
潮音閣から見下ろす庭を眺めて職人がどのような感動を受けるのか想像した。
注)石元泰博の泰山木の写真集『花』より「泰山木」が掲載されていた。
10年後に『白百』が出て『白』が完結した。
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