『テクストの発見』(1994)その2

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大澤吉博編『叢書 比較文学比較文化 6 テクストの発見』中央公論社、1994年

2018年10月6日の記事を例に検討してみる。

料亭十牛庵を見学(A)

軽めのランチを頂いて、相方と話す午後の時間はすぐに経ってしまう。ベランダ席へ出てデザートをとり、ハーブティを飲んでいると、西山が雲に包まれ、降り出した雨がテーブルクロスまでふきつけだした。そろそろ退散かなと思っていたら、相方が見学の話をつけていた。エレベータで3階へ降るとそこはブライダルルームである。隣に繋がるドアを開ける。靴を脱いで長い廊下を歩くと、そこは数寄屋造の料亭十牛庵で、東側の部屋に入り障子を開けると植治の庭が雨に濡れて目の前に広がっていた。舞台が付いた贅沢な部屋を見せてもらったり、階段を上がり、西に法観寺の五重塔が、振り返ると東に緑の庭が屋根越しに見える部屋などに案内してもらった。隠れ部屋のような三畳ほどの小部屋もあった。ちょうどよい腹ごなしになった。

過去のことを書いているので「タ形」で書くのが欧米文脈の考え方である。一貫した視点が必要である。修正してみたがしっくりしない。和文脈はそもそも文法上過去形というのがない。

料亭十牛庵を見学(B)

軽めのランチを頂いて、相方と話す午後の時間はすぐに経ってしまった。ベランダ席へ出てデザートをとり、ハーブティを飲んでいると、西山が雲に包まれ、降り出した雨がテーブルクロスまでふきつけだした。そろそろ退散かなと思っていたら、相方が見学の話をつけていた。エレベータで3階へ降るとそこはブライダルルームであった。隣に繋がるドアを開けてもらった。靴を脱いで長い廊下を歩くと、そこは数寄屋造の料亭十牛庵で、東側の部屋に入り障子を開けると植治の庭が雨に濡れて目の前に広がっていた。舞台が付いた贅沢な部屋を見せてもらったり、階段を上がり、西に法観寺の五重塔が、振り返ると東に緑の庭が屋根越しに見える部屋などに案内してもらった。隠れ部屋のような三畳ほどの小部屋もあった。ちょうどよい腹ごなしになった。

Aでは最初のランチと見学を時間順に繋いだものとみることができる。Bでは最初の文で全体が一旦終わったようにも読める。

①すぐに経ってしまう。

これは「非タ形」であるが、全体が過去のことであることは了解している。しかし、午後の時間はランチを済ましても終わらなくて、その後に見学をしたことが描写される。「すぐに経ってしまった」では見学につなげようがない。

②ブライダルルームである。隣に繋がるドアを開ける。

これは現在形、「非タ形」である。過去の一連の行動の中で記憶に生々しく、今、行動してるかのように過去を語っている。

大澤吉博氏は「テクスト」を読むで考察していた。

「では日本語ではなぜ「現在形」と「過去形」が混ぜられるのか。そこから日本語の非論理性というおきまりの非難が日本語に投げ掛けられることにもなる。しかし、その議論の背後には日本語の性質を西洋の言語の性質で分析しようとする態度が隠れているのである。それは日本語の性質を明らかにすることにはならないと私は考えている」(P19)。

「ここには描写の視点の取り方において、決定的な違いがある。英語の場合なら、一貫してそこには語られている事実は過去の出来事であり、それらを現在という時間の流れの一点から語っているという態度が明らかである。それに対して日本語の場合、視点は移る。(省略)語られている事実が過去の出来事であることを日本語の場合でも明瞭に示しているが、その時間と過去という時の対立は、次第に意識の底に追いやられ、語られている時間に語り手は没入していくことになる。そうした時に過去を表現する「現在形」が出てくるのである。つまり、ここでの「非タ形」は時間の流れにおける絶対的な現在を示しているのではないのである。語られていることが過去の出来事であることはそれまでの叙述の流れからはっきりしている。だからここで「非タ形」が使われていようとも、ここでの時間がいつかと問われれば、それは紛れもなく過去なのである。ただし、語り手はその過去を現在から距離を持った視点で眺めようとはしていない。語られている過去に入って出来事を見ようとしている。その限りではその出来事はいま起きていることなのである」(P19-20)。

そういうことかと納得しつつも、文体として完成していない文章をどうにかしようともがいている。

 

「言語を越えて、日本文学がなにを伝えられるのか、またはなにが伝えられないのかを考えた時に、初めて日本文学の、そしてなによりも日本語の特質が明らかになるのである。この点で比較という技法はものごとの本質を見通すのに役に立つ」(P21-22)。

 

注)

演劇倶楽部『座』で夏目漱石の『夢十夜』を見たとき、過去を物語ることばが「タ形」と「非タ形」で朗読されていた。『座』では本をそのまま朗読する。演技とともにナレーションの朗読を聴くと、夢の世界が今、そこにあると感じられた。

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