『日本語の森を歩いて フランス語から見た日本語学』(2005)

読書時間
外国語を学ぶことが母語を学ぶことになる。そうでなければ、勤め人である私が、時間を削ってまで言語についての本を読むことの理由はないのだろう。
普段何気なく使っている「に」と「て」についてフランス語の前置詞との対比で説明されると、日本語の位置関係を示すことばの曖昧さにあらためて気付かされると同時にフランス語が厳密であるという言い方も一つの言説にすぎないことに思い至る。
本書は「発話操作理論の言語学」を使って日本語の現象をみていく本である。「生成文法」だけが言語学というわけではない。著者達の師であるアントワーヌ・キュリオリの言語学をもとに日本語の森を歩くという趣向である。
「「わたし」とか「あなた」などの言葉は、それが発話されている状況のなかでしかその具体的な意味が理解されません。つまり、発話の状況の痕跡がすでに、発話そのもののなかに刻み込まれているということです。言語は人間の外にあって、それをわれわれが符号や暗号を手渡すように他人に手渡すのではないです。そうではなく、発話するたびに、人間は自分を発話するものとして位置づけ、そうして発話主体である自分、そして発話の出来事の時間である現在を出発点にして、自分自身の存在を組み込んだ関係の網を構築していくのです」(p.13)。
本書に出てくる用語で馴染みのないことばをメモしておく。
言表(énoncé)
「発話(行為)énonciation によって発話されたひとつらなりの意味の関係網」(p.14)
述定関係(relation prédicative)
「基本的に述語(動詞)によって、ひとつかふたつの項のあいだに関係が打ち立てられること」(p.73)
アスペクト
「述語が提示するプロセスの内的な時間的展開にかかわる位相(アスペクト)」(p.126)
以下の用語は説明がなかった。
モダリティー(p.159)
グラマティカリゼーション(p.178)
フランスの森は、平坦地にあるのでどこからでも入れて出れるのに対し、日本の森は山に続いている感じで奥深いイメージがあるという(p.33)。
著者達の日本語の森歩きに付き合ったのは楽しかった。比較文化論といってもよい。フランス語を知らなくても十分に味わえる。
前置詞は日本語にない言葉なので、Seth Lindstrombergの”English Prepositions Explained” など読んでみたくなる。しかし、この手の本を見分ける力は持っていない。

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