吉川幸次郎『読書の学』ちくま学芸文庫、2007年
1.再読するに当たってしたこと
前に読んだ時から時間が経ったようだ。そもそも「読書の学」とは何であるのか。ブログを読み直してみたが、書いていなかった。読書については方法論として読むという態度だったので、本書を手に取ったわけだが、書名を深く考えてこなかったようだ。「学」とは何だろう。
『易経』の「繫辞伝」からとられた「書不盡言、言不盡意」が言語不信の思想を表すことから、前田英樹氏が『愛読の方法』(ちくま新書、2018年)で取り上げていたプラトンの『パイドロス』(岩波文庫、1967年)や中島敦の『山月記・李陵』(岩波文庫、1994年)と一緒に読んだことをブログで確認した。
2.「書不盡言、言不盡意」はどう展開したのか
子曰、書不盡言、言不盡意、然則聖人之意、其不可見乎(『易経』)
書は言を盡さず、言は意を盡さず
言語不信は言語軽視でもある。
吉川幸次郎は書物を読んで事実に到れば、言語は忘れられるという。それが人間の自然だという。
言語で書かれた書物を読んでも、「しかし、記憶に残るのは、事実そのものである。外的事実については、ことにその視覚的映像である。言語は記憶に残らない」(P13)。
確かに、正確な言葉としてよりイメージとして記憶される。言葉は自分の言葉として記憶される。
『朱子語類』は弟子が朱子と問答したことを記録したもので、朱子の言葉なのか弟子の言葉なのか分からないところがある。
付箋の貼られた箇所を読んでみたけど、何で付箋を貼ったのか分からない。何に興味を示したのか繋がらない。ブログを読んでも焦点が当たってないと思った。本の主張とは別に興味が動いたのだろう。
3.言文一致下の現在
中国語が書記言語として発達した歴史を考えないと口語と書記言語の分裂は理解し得ない。我国においても口語と文語の違いが緩んで、言文一致運動以降にいる我々は、話し言葉をそのまま書き言葉として扱ってもそんなに違和感なく済ませてしまう。
議事録をとってみても、テープ起こしのままの言葉にすることを支持する人が多いと感じる。引き締まった議事録体ともいうべき文体で要約すると発言した表現と異なるとクレームする人がいる。意思決定に当たり、過不足のない説明がされ、十分な質疑が行われたのか、反対意見が正しく記録されたか、議事録の要件が充足されることが重要である。議事を録音したものを残しても、訴訟のための証拠以外に役に立たない。一覧性のない議事録では閲覧することも容易でないため、発言録を別に残すところもある。
4.「書不盡言、言不盡意」の意味
少し、話が逸れてしまった。言文一致下において、「書不盡言」は音声文字の「不可逆的変換」による書記言語化の問題、「言不盡意」は言語の相互理解可能性の可否の問題と捉えてみたい。
書き言葉は必ずしも発言そのものを再現し得ない。言い方はいくらでもあるので、書記言語から発言をそのものを再生するには変換情報が記録されなければできない。
話し言葉は意図を持っているが、人の心が見えない以上、言葉だけによる相互理解は不可能であるという意見もあるだろう。
果たして、そういう当たり前のことを前提にして、吉川幸次郎は何を考えてのだろうかと想像してみる。
2017-10-27『読書の学』(2007)
コメント