『本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた』(2017)

読書時間

横尾忠則『本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた』光文社新書、2017年

本書は、横尾忠則氏が2009年4月から2017年6月まで、朝日新聞に掲載した書評に加筆、修正を加えたものだ。

横尾忠則氏が床に積み重ねた133冊の本では梅原猛著『老耄と哲学』(文藝春秋、2015年)、高階秀爾著『日本人にとって美しさとは何か』(筑摩書房、2015年)と古田亮著『俵屋宗達』(平凡社新書、2010年)が私の読書と重なったくらいだ。Twitterでは『のらくろ放浪記』の復刻版を新幹線で読んでいたのは記憶しているが、朝日新聞の書評にはないようだ。少なくとも4冊は著者と同じ本を読んでいるということになる。特に意味はないが、興味が違うのだろうことは分かる。だから、横尾忠則の書評を読むということはある。

著者は最初に「死・生・今」のジャンルを選び、いきなり、石内都著『フリーダ 愛と痛み』(岩波書店、2016年)という写真集の書評をぶつけて来た。

「見つめれば見つめるほど、遺品というものは不気味で気持ちの悪いものである」(P20)。

遺品はフリーダ・カールの不在証明である。それは実際に見なくても感じ取ることはできる。

しかし、「彼女の絵画は時には観る者に感情を押しつけてくる。その感情の矢を如何にかわすかというのが芸術作品との交流でもある」(P21)と言われると、フリーダ・カールの絵を見たことのない私は戸惑いを覚える。芸術論であれば、感情を押しつけてくる絵は観たことがある。感情には悲しみも怒りも色々ある中で、抽象度の高い表現を味わうには共通の経験が足りないのである。

川瀬巴水(画)林望(文)『巴水の日本憧憬』(河出書房新社、2017年)

私は、こういう始まりが好きだ。

「夜の帳がおりる頃の、巴水のザワザワさせる夜景に魅せられてきた」(P32)。

この凝縮された表現を気楽に味わえる通勤時間とは何とも贅沢な読書時間だ。

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