『日本の中世を歩く』(2009)その3

読書時間

五味文彦『日本の中世を歩く ーー遺跡を訪ね、史料を読む』岩波新書、2009年

第4章 厳島の海辺に平氏の祈りを見る

厳島はまだ訪れたことがないので、博物館で見た平家納経の記憶を思い出していた。

第5章 博多の物流から都市の展開を読む

博多は何度か訪れた町だが、歴史上の足跡は余り知らなかった。

中世の荘園について、知る必要があると思った。というのも、五味文彦氏が荘園からの京までの輸送をどうしたのか検討していたからだった。院の私的なものであるから、輸送に国衙を使えないという。荘園についての基本的な性格を理解していなかったことに気づく。

史料を読むは『延慶本平家物語』だった。平家物語の原平家物語は信濃前司行長とされたが、その父の藤原行隆の日記から延慶本に追加されたものが多いという。

第6章 鶴岡八幡宮から鎌倉を見渡す

身近な鎌倉であるが、全体像の把握ができていないことは、河野眞知郎『中世都市 鎌倉 遺跡が語る武士の都』(講談社学術文庫、2005年)を読んで感じていた。石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫、2004年)を読むことがいいのかも知れない。

鎌倉が王権と対峙する関係を言い表す言葉は難しい。だから、黒田俊雄の「権門体制」という言葉が生まれてきたわけだが、微視的に見て、さらに引いて巨視的に見るとどのように見えるのか興味がある。

鶴岡八幡宮は源頼義が石清水八幡を勧請して鎌倉の由比ヶ浜に鎮座していたのを、山寄りに遷して「源氏の氏の社というだけでなく、祖先崇拝のための宮廟(宮寺)とした」(P85)。

八幡宮は応神天皇を祀る武の神であることは知られている。「しかし注意したいのは、鎌倉に遷されたのは同じく八幡であっても、若宮だったことである」(P86)。うかつだった。由比ヶ浜の八幡を下若宮という。浜と山の八幡をつなぐ参詣道が若宮大路だ。するとなぜ若宮が勧請されてのか。

ここでも五味文彦氏は『梁塵秘抄』を取り上げ、若八幡の信仰が当時あり、源頼義もその信仰を抱いていたという。

二四二番

神の家の小公達は 八幡の若宮 熊野の若王子 子守御前 比叡には山王十禅師 賀茂には片岡 貴船の大明神

(神の子の公達には、八幡の若宮、熊野の若王子と子守御前、比叡には山王十禅師社、賀茂には片岡社、貴船社の大明神)

今様だけでは根拠が弱いような気がする。

最初に頼義が石清水八幡宮護国寺から勧請したのが若宮(康平六年(1063)であり、治承四年(1180)に頼朝が小林郷北山(現在の地)に遷した。建久二年(1191)に焼損したため、改めて石清水八幡宮護国寺を勧請し、上宮(本宮)下宮(若宮)とした(Wikipedia 鶴岡八幡宮)。下宮は元鶴岡八幡宮(由比若宮)と呼ばれている。若宮には応神天皇の子である仁徳天皇他が祀られている。

八幡信仰は神仏習合により八幡大菩薩信仰となるのは分かる。では、若宮信仰とは何なのか。我々は春日大社の摂社である若宮の祭を知っている。春日若宮おん祭である。この背景に若宮信仰があったことは間違いない。

春日大社は春日若宮おん祭についてどう言っているか見てみる。

「春日大社の摂社である若宮の御祭神は、大宮(本社)の第三殿天児屋根命と第四殿比売神の御子神であり、その御名を天押雲根命と申し上げます。平安時代の中頃、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になり、当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と仰がれていました。

長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり、保延元年(1135年)旧暦二月二十七日、現在地に大宮(本社)と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。若宮の御神助を願い、翌年(1136年)旧暦九月十七日、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりです。

御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天の続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われ、八百七十有余年にわたり途切れることなく、今日に至ります」(春日大社のHPより)。

【今後の宿題】

春日社の若宮について、今様ではどう謡われていたのか。

石清水八幡宮の若宮は今様との関係でどのような歴史があるのか。

若宮信仰はどのようにして発生したのか。

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