『奈良史学』37号に村上紀夫氏が「流転する明智光秀の首塚」を書いていたのを読む。
明智光秀の首は斎藤利三の首と共に粟田口に葬むられたあと、明智光秀の子孫か家来の子孫という明田理右衛門(明田利右衛門)によって白川橋三条南梅宮町に五輪塔が移された(『翁草』明和九年(1772年))。明治になって同じ梅宮町の現在の地に再度移設されたことが史料により検証されていた。
白川筋三条下る梅宮町の和菓子屋である餅寅のところに石柱(弘化二乙己(1845年)があり、東に入った所に現在の首塚があるのを見に行ったことがある。住宅地の細い路地の北側に小さな祠がある。この首塚が流転したものだと知って面白みを感じた。
村上紀夫氏が付記していた『現代思想 総特集明智光秀』令和2年1月臨時増刊号の岩田重則氏の「明智光秀の墓」を読んでみたが、粟田口の首塚から三条白川の梅宮町へ移転したところで終わっており、二度目の移転には言及がなかった。
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