『大御所 徳川家康』(2019)その2

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三鬼清一郎『大御所 徳川家康 幕藩体制はいかに確立したか』中公新書、2019年

徳川家康の大御所時代の11年を扱った最後の第十章 大御所政治の遺産 で「元和偃武から明治維新に至る二世紀半ほどの間、戦争が起こらなかったことは事実である。しかしそれは何を意味するであろうか。ただ手放しに平和を謳歌することができただろうか」(P200)。

「この時代の平和に相当する言葉は「無事」(または静穏)である」(P200)。「武力を用いず戦争のない状態を指す意味での「平和」が使われるのは近代社会に入ってからのことであるから、前近代社会において「戦争」と「平和」を対比概念として用いることはできない。歴史上の言葉に近代的な語感を投影させることは危険である」(P201)。

「二世紀半も続いた江戸時代の「平和」のもつ意味を考え直すことで本書を締めくくりたい」(P201)として「惣無事」の論理と「惣無事令」の節が書かれた。

三鬼清一郎氏が先頃亡くなられた藤木久志氏の『豊臣平和令と戦国社会』(東京大学出版会、1985年)について、「私は同年十二月に書評を行い、同書のもつ研究史上の意義を認めつつも、次のような批判を行った(『日本史研究』280号)」(P202)と書いている。

三鬼清一郎氏は藤木氏の主張を要約したうえで、3点の批判を行なっている。長いが引用する。

「関白となった秀吉は、戦国大名間で行われている領土紛争を私戦として停戦を命じ、調停案を示して双方に返答を求めた。通常、一方の側は既に秀吉と誼を通じているから、突然ながら裁定は不公平なものとなる。相手側が難色をしめせば、それは関白秀吉への反逆にあたり、さらには天皇の意向(叡慮・綸命)に叛くものと威嚇したのである。ほとんどの大名は抗する術もないので、秀吉は戦わずして相手を屈服させることに成功したのである」(P202)。

三鬼清一郎氏は藤木氏の主張を「秀吉の全国統一は武力,暴力一辺倒で行われたという通説への批判」(P202)と見ている。

藤木氏への3点の批判は以下にまとめられている。

「①挙げられた四法令のうち、「惣無事令」と「喧嘩停止令」は実定法(掟・条目・法度など)として存在しない。とくに後者については、史料解釈に誤りが認められる。

②「刀狩令」と「海賊停止令」は、ともに天正十六年(1588)七月八日に秀吉が発布した法令であることが確認されるが、前者を「身分表象」とみなして実際の効力を軽視し、後者を「惣無事令の海外への適用」という独自の意味づけをされたことは適切ではない。とくに後者は重大な誤解を招きかねない問題を内包している。

③前近代社会において「戦争」と「平和」は対比概念ではないから、「豊臣平和令」という呼称は不適切である」(P202)。

三鬼清一郎氏は「無事」「惣無事」は中世で用いられた言葉という(P203)。「家康が秀吉から命じられた「惣無事」の儀とは、関東・出羽両国を鎮定する任務であって、秀吉が関東以北という地域を限って「惣無事令」という法令を発布したのではない」(P203)という。

私も藤木氏の『豊臣平和令と戦国社会』を読んだ時、「平和令」という言葉にまず違和感を覚えた。その違和感を三鬼清一郎氏は藤木氏が「とくに十二世紀中期ドイツのラントフリーデ(帝国平和令)やその武器規制条項などに示唆を得た」(P203)と『豊臣平和令と戦国社会』からの引用したうえで批判している。「私は、「キリスト教社会では、これが異教徒や異端に対する撲滅運動のなかで用いられるとき、大量殺戮も神の名における正義と認識された事実を想起したい」(『日本史研究』(280号)と指摘し、藤木氏の理解が一面的であることを批判した」(P203)。

三鬼清一郎氏の主張は明快である。

「ラントフリーデを現代の状況に置き換えるならば、イラク(湾岸)戦争は「ブッシュの平和令」、メキシコなどへの恫喝は「トランプの平和令」にほかならない。その根底には「キリスト教原理主義」ともいうべき独善的な思想が横たわっている。他国が積み重み上げてきた歴史や民族性に根ざした権利を軍事力で踏みにじり、身勝手な主張を繰り返す超大国の姿は、なぜか「惣無事」の論理と重なり合って我々に迫ってくるようである。自らのエゴを実現するためには無差別殺人さえも「自由の実現」と称して恥じない事態こそ、支配が創り出した「平和」の本質である。前近代社会における「平和」は「戦争・征服・侵略」の対比疑念(ママ)ではない。これを現代の語感でとらえ、賛美するような風潮には危険なものを感じさせる」(P204)。

最後に来て三鬼清一郎氏の声を聞いた気がする。

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