『変貌する北野天満宮』(2015)

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瀬田勝哉編『変貌する北野天満宮: 中世後期の神仏の世界』平凡社、2015年

瀬田勝哉氏は『増補洛中洛外図の群像』(平凡社ライブラリー、2009年)でお馴染だったが、B5サイズと大きかったので京都の本屋で見かけたときは買うのを躊躇した。偶々、松戸の本屋で見つけたのと、探していた本がなかったので、買ってきた。

あとがきを読んでビックリした。20年も『北野社家日記』を読む勉強会を続けて、論文としてまとめたという。

西山剛氏の「室町期における北野祭礼の実態と意義」では「瑞饋祭」が考察の対象となっていた。注記に三枝暁子氏の『京都 天神をまつる人びとーーずいきみこしと西之京』(岩波書店、2014年)も取り上げてあり、懐かしくなった。ずいき祭の今を知るにはこの本である。

今年の「瑞饋祭」を観に行くことを忘れていたのが残念だっただけに、論文を読んで、祭の起源を知りたく思った。

北野天満宮を扱う研究は少なかったという。北野天満宮を扱うための4つの柱をあげている。

①空間

②組織

③時間

④経済

経済は天満宮全体を成り立たせるために必要な荘園などの経済的基盤とその活動である。

本書の構成は以下の三部構成で8本の論文からなる。

第一部 空間

第二部 組織

第三部 信仰の諸相

さて、瀬田勝哉氏の論文「北野に通う松の下道 一条通と北野・内野の風景」は本を著者と読んでいるような気がする。展開がうまいのである。

『洛中洛外図 歴博乙本』は金雲により「空間を連続的に描こうとする姿勢が不思議なくらい見られない」が、「意外ともいえる連続的空間が一ヶ所見つかる」。それが北野社である。『洛中洛外図 歴博乙本』の北野社から、歩き出して、松の下道の先にある堀川の欄干のある橋(一条戻橋)を渡る。北から南に誓願寺、革堂、百万遍知恩寺が並ぶ小川(こかわ)通とつながる。当時はここにあったのが分かる。

B5にしたのは正解だと思う。論文集であれば半分で良いのかも知れない。ただ、絵や地図を読みとるには大きなほうが細部が潰れずに味わえる。

ここに描かれた一条通りは、豊臣秀吉による聚楽第の建設で分断された。江戸初期の地図によると、松の下道は聚楽第の堀跡へ向かい細って行き、畠となって消えている。

畠の話になった。大内裏は鎌倉時代には「内野」と呼ばれるくらいに荒廃していた。南北朝末期の明徳2年(1391)に山名氏清が足利義満に背いて敗れた明徳の乱があり、「内野合戦」と呼ばれたという。そして、内野と北野社の関係の考察が続く。北野大茶湯はなぜ北野であったのかに話が行き着くのは必然の流れであった。

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