永夜清宵何所為

読書時間

湯川秀樹、梅棹忠夫『人間にとって科学とはなにか』中公新書、1967年、1979年第22刷

久しぶりに引っ張り出して読む。最後に湯川秀樹が「永夜清宵何所為」を挙げて科学とは何かを締めくくっていた。これは上田秋成の『雨月物語』にある「青頭巾」という話に出てくる言葉である。手元にある新潮日本古典集成『雨月物語 癇癖談』(1979年)の解説で浅野三平氏がアウトラインを書いているのをメモしておく。

「大きな寺の住職が美少年を愛し、その少年が病死したので、可愛さのあまり葬らずに、少年の肉を吸い、骨をなめて食べつくしてしまう。それ以後、人肉の味を覚えた僧は、夜毎村里へ下って屍を食べたりする。最後は、快庵禅師という名僧によって成仏し、青頭巾と骨のみが草葉にとどまったという物語である」(P251)。

浅野三平氏は「僧家における男色をテーマとした凄みのある愛欲譚」(P251)と評価している。

愛欲に心神乱れた僧の頭に自らの青頭巾を被せて、永嘉玄覚の『証道歌』から二句を快庵禅師が授けた。

江月照松風吹 (江月照らし松風吹く)

永夜清宵何所為 (永夜清宵、何の所為ぞ)

僧はこれを繰り返し唱えるが、翌年、快庵禅師が蚊の鳴くような声で唱える僧に「作麼生何所爲(そもさんなんのしょい)ぞ」と一喝すると、僧は消え失せ、そこには青頭巾と骨のみが残った。

湯川秀樹がこの話を科学とは何かを追求した先にあるものの譬として出しているのは気になった。

「月が照って、松には風が吹いている。いい景色や。人間はもうそこにいないかもしれない。それは何者の所為か。どう考えたらいいのか。考えれば考えるほどわからなくなる。わからんけれども、それを不断に問うていかなければならない。その結果は骨だけが残ることになりはしないか。私はそれが科学だと断定するわけではない。もっと明るい科学の未来像が考えられないというわけではない。ただ、科学とはそんなものかもしれないという、いやな連想を消しきれないです」(P166)。

湯川秀樹が科学の未来に対して持つイメージがそこにある。昔、読んだ時に暗い気持ちになったのを思い出した。それにしても、上田秋成の『雨月物語』からのインスピレーションがこういうところで結びつけられるのを見ると、読むという行為の奥深さを考えざるを得ない。以前は、原典を確認しなかったが、今、こうして原典を読み直す自分の読書スタイルになっていることを考えると、昔はものを思わなかったのだと思う。

#科学 #湯川秀樹 #梅棹忠夫 #上田秋成

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