ヴァレリーの「デカルト」を読む

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東宏治・松田浩則編訳『ポール・ヴァレリー ヴァレリー・セレクション 下』平凡社ライブラリー、2005年

改題で「デカルト」が1937年7月31日「第9回国際哲学学会」の開会式に際してソルボンヌ大学で行われた講演がもとになっていることが分かる。もっとも、「デカルト」の最初にそのことが書いてある。

共和国大統領閣下

大臣閣下

紳士淑女のみなさん

アカデミー・フランセーズは、第9回国際哲学学会組織委員会からの丁重なお招きをお断りするわけにはまいりませんでしてので、わたくしはアカデミーの名において当委員会にまずお礼を申し上げねばなりません。アカデミーは、『方法序説』出版三百年にあたってデカルトを記念する機会に出席する義務があります。

「デカルト」(P196-226)を読む目的を忘れて、デカルトの自己意識を強調している点を抜き出した。本当はヴァレリーの「やり口」ともいうべき明確化の方法を読み取るはずだった。

「彼にあってわたしを魅了し、わたしの眼に生き生きとして見えるもの、それは彼の自己意識、彼の注意力がとらえる自分の存在全体の意識、自分の思考の営みを見張る鋭敏な意識、意思的でかつ厳密なあまり自分の「自我」を一種の道具に変え、その道具の信頼性はそれにたいする彼の意識の度合にもっぱら依存する、といったふうな彼の意識力です」(P217)。

「わたしたちをいつまでもとらえて離さないものは、あのいくつかの原理自体ではありません。わたしの眼を惹きつけるのは、彼の人生やそもそもの研究が開始される状況の魅力的な物語から始まって、このひとつの哲学への序曲のなかに、ほかでもない彼の姿がずっと見えているということなのです」(P219)。

ヴァレリーは原理でなく、Cogitoというデカルトの自己意識に感動した。だから、私も原理についてはこだわらずに『方法序説』を読むことにしたいと思う。

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