北川敏於『黒谷に眠る人々』黒谷文庫第8巻、1973年、1990年2刷
黒谷とは紫雲山金戒光明寺のことをいう。webをみると「浄土宗大本山くろ谷金戒光明寺」とある。黒谷(くろだに)さんと土地の人は呼ぶ。京都に来始めた頃に、タクシーに乗って黒谷の読み方が分からなくて「くろたに」といったら、反応が無かったことを思い出す。「くろだに」と谷は濁るのである。連濁の法則であるが、例外もある。ちなみに、貴船(きぶね)は地域名では濁るが貴船神社(きふね)は水神なので濁らないと言われた。
法然上人は比叡山西塔黒谷の叡空の本房で修行していた。法然上人が黒谷を下りこの地に移って草庵を結び白川の禅房と呼ばれた。法然上人の師の叡空の死により黒谷の本坊を譲り受けたので、この岡崎の地を新黒谷といっていたことが、黒谷さんと呼ばれるもとであろう。
本書は黒谷本山発行の「紫雲」1970年7月号より24回連載した「黒谷の奥津城」に歴代の住職の記録をまとめて加筆したものとある。
第1部 金戒光明寺(黒谷大本山)の沿革
第2部 歴代編
第3部 先哲編
先哲編は1清和天皇火葬塚から136市村水香となっている。
私が付箋を付けたのは以下であった。
今なら違うと思うが、当時の自分がそこにいる。
開祖 法然房源空
清和天皇火葬塚
山中鹿之助幸盛
鳥居元忠
春日局
竹内栖鳳
徳川秀忠夫人
徳川忠長
北垣国道
注)春日局は麟祥院(文京区湯島)に眠っているが、金戒光明寺に徳川秀忠夫人(崇源院)と徳川忠長(峯崇源院)の、宝篋印塔を建てて供養している。御台墓の隣に春日局の宝篋印塔があるのは春日局の指示があったに違いない。
注)くろ谷と書くようになったのはいつからだろうか。
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