清水克行『戦国大名と分国法』岩波新書、2018年
第3章 六角承禎・義治と「六角氏式目」
六角氏式目は当主が家臣に作らせたものを承認したという。それぞれが起請文を作成しているという異例なものだ。大名が家臣団をしばるのではなく、大名の恣意的な行動が規制されている。清水克行氏は家臣が当主に迫り、形式上は当主の指示があったように見せているという。なるほど、成立の事情が下記のようであるならば、あり得る話だ。
六角氏式目が成立したのは、当主義治が重臣の後藤賢豊父子を粛清する事件に端を発した家臣団と紛争である「観音寺騒動」(永禄6年(1563))の後、永禄10年(1567)であり、永禄12年(1568)には織田信長により六角氏は滅ぼされている。
第4章 今川氏親・義元と「今川かな目録」
「今川かな目録」は東日本で最初に作られた分国法である。大永6年(1526)4月14日に今川氏親が制定したが、6月23日に死去したことにより、「今川かな目録」の影の制作者は夫人の寿桂尼とする説が出た。①制定時は病身で分国法の執筆は不可能②仮名書きであることは女性が書いたものというのが論拠という。清水克行氏は成り立たないという。①は条文にその前の年の記載があること、「今年大永五乙酉」とあるので20条は前年に骨子ができていたとする。「今川かな目録」の構成が整っていることから、すでに前年から用意されていたと考える。②は仮名文字だから女性とは短絡すぎる。寿桂尼の書状は漢字が少なく、漢文特有の返り字もほとんどない。寿桂尼の制作説は無理があるとした。
清水克行氏は今川氏親が一人で書いたようにある「あとがき」は事実と違うとした上で、共同作業で生まれた法と考える。整備された内容と「今年大永五乙酉」が前年と修正されていない理由を共同作業による修正ミスと結論している。
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