『後醍醐天皇』(2018)

読書時間

兵藤裕己『後醍醐天皇』岩波新書、2018年

1.歴史と文学

例によってあとがきから読む。兵藤裕己氏が日本文学を専門とすることが書かれている。我が国の文学は古来より歴史を包括する概念であったが、明治20年代に歴史を分離・独立させたという。

歴史と文学の境が曖昧であるという点は、『太平記』が例としてあげられよう。かつて久米邦武が「太平記は史学に益なし」といった。そんな『太平記』を兵藤裕己氏は校注した。今回の岩波新書のあとがきは含むところがある。

2.通説批判

このところ南北朝時代を扱った本をいくつか読んできた。後醍醐天皇についての見方も少し変わってきたという認識があった。その周りも含めて見方が変わってきていることをこの本ははっきり言っている。

「文観弘真は、むしろ碩学の真言僧としての実像があきらかにされつつあり、いわゆる「怪僧」「妖僧」の文観イメージや、真言立川流の中興の祖云々は、俗説に過ぎないとして否定されている」(P7)。

3.『異形の王権』批判

後醍醐天皇の異形ぶりを指摘した網野善彦氏の説(『異形の王権』(1986年))を兵藤裕己氏は批判する。後醍醐天皇の密教への傾倒は父の後宇多天皇譲りであり、天皇位にありながら灌頂を受けたのは、後宇多天皇が先である(『御遺告』)。俗体のまま修法を行うことが当時の金沢貞顕書状でも不審に扱われてはいないという。貴族社会周辺で行われていた聖天供の修法をもって、後醍醐天皇の修法の特異性を示すことはできないという。

4.聖徳太子信仰

後宇多法王は灌頂を後醍醐天皇に授けたが、後醍醐天皇は灌頂を授けることはしていない。生涯出家せずに天皇位にあった後醍醐天皇は在俗のまま至高の仏教者であった聖徳太子を理想としていた。清浄光寺(遊行寺)の後醍醐天皇像は通常の冠の上に冕冠を載せている。物理的には不可能だが、聖徳太子像というモデルがあった。また、四天王寺にある聖徳太子自筆とされる『四天王寺御手印縁起』を召しよせて、自ら書写し、奥書に手印を押している。これらは後醍醐天皇所縁のものであり、展覧会でも目にしたことがある。俗説を排してみれば後醍醐天皇の信仰の深さが伝わってくるだけである。

5.無礼講

太平記で書かれた「無礼講」が後鳥羽天皇の周辺で行われていたことを、小島裕己氏は、『花園院宸記』の記事から確認したあとで、以下のようにまとめた。

「こうした無礼講の場を設定して、後醍醐天皇とその側近たちは倒幕の謀議を重ねてゆく。もちろんそれは、たんに人材をもとめる手段というにとどまらない。天皇が「武臣」北条氏を介さずに直接「民」に君臨する政治原理が、臣下のヒエラルキーが無化される芸能的寄合の原理に(象徴的に)求められたということだ」(P132)。

「天皇が直接「民」に君臨する統治形態を企てた後醍醐天皇の念頭にあったのは、宋学とともに受容された中国宋代の中央集権(=皇帝専制)的な官僚国家である」(P134)。

ここまで読むと後醍醐天皇の新政が中国の宋代の皇帝専制がモデルと言いたいことが分かる。

小島裕己氏は第7章 バサラと無礼講の時代でこの時代の文化について言及し、佐々木道誉がバサラを政治的に利用した点をあげている。

6.後醍醐天皇の呪縛

第8章 建武の「中興」と王政復古では、小島裕己氏が後醍醐天皇の評価を歴史を追って明らかにしてゆく。その転換点として後期水戸学の藤田幽谷の『大日本史』の論賛削除の建議をあげている点が読み応えあった。国体論というイデオロギーが出てくるあたりは、後期水戸学を読んでみたいと思う。

「後醍醐天皇の企てた「新政」は、五百年の時を隔てて、日本の近代を呪縛したのである」(P232)。臣下のヒエラルキーを否定するその専制的な政治手法が「王政復古」で実現したというわけではない。それでは明治天皇=後醍醐天皇になるので、明治天皇が専制的な天皇であるという主張になってしまう。

武力で政権を奪取した倒幕勢力が明治天皇の権威を利用して専制的に振る舞ったのが、明治維新というクーデターである。都合の良いスローガンとして「王政復古」は利用されたに過ぎない。

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