高橋昌明『増補 湖の国の中世史』中公文庫、2008年
三、現当二世の利益を求めて
西国三十三所巡礼の成立は「三井寺の高僧覚忠の名と結びついた三十三所観音巡礼」(P41)に始まるとされる。「覚忠の三十三所は、伝統的な観音霊場と新たに出現した霊場をくみあわせ、当時三井寺と対立がしていた延暦寺関係の霊場を、意識的に排除している点に大きな特色があった」(P41-42)。
「以後霊場においては今日までほとんど変化がなく、わずかに札所の順序が異なるのみである。覚忠の巡礼コースは那智にはじまり、宇治の三室戸寺に終わる。近江国内においては、十八番竹生島(現行三〇番、以下同じ)、二〇番観音正寺(三二番)、二一番長命寺(三一番)、二二番三井寺(一四番)、二三番石山寺(十三番)、二四番岩間寺(十二番)で、現行のそれとくらべればほぼ逆まわりであった」(P42)。
ここで、高橋昌明氏は「院政期の観音霊場としてみのがすことができないものに、近江彦根山西寺がある」(P42)と云う。
ここまで読んできて思い出した。
寛治三年(1089)、時の内大臣藤原師通が参詣し霊験を得たことで、人々が押し寄せ、白河上皇までもが参詣した。彦根寺の名声はいやが上にも高まったが、翌年には熱狂は去り、今では往時の面影がみあたらないという話だった。
注)彦根築城のさいし山下に移され真言宗北野寺となったと云う。
コメント