『養生訓』(1961年)

読書時間

1.『養生訓』の読み方

貝原益軒『養生訓』の新しい読み方とは何か。子安宣邦先生の宣伝文句に引っかかって『養生訓』を買ってきた。そもそも、貝原益軒は何者ぞ?『養生訓』は読んだことがないので、新しいも何もない。常識で考えれば、医学の進歩により、不養生になるかもしれない(笑)本を今、読むことにどのような意義をみいだすのか?

岩波文庫を手に取ると、勝部真長所蔵の刊本を底本にしたと凡例に書いてあった。懐かしい名前を目にした。校訂本なので凡例はしっかり読んでおく。

刊本のため、出版元がふりがなを勝手に付けたという。原文尊重から残したという。現行仮名遣いであり、すっかり骨を抜かれたような読みやすい文章である。

貝原益軒(1630-1714)は福岡城下に生まれた武士である。浪人したり、藩医となって復帰したあと、藩の儒官になったという。

『養生訓』は貝原益軒晩年の84歳の時に書かれた。8巻からなる。

巻第一 総論 上

巻第二 総論 下

巻第三 飲食 上

巻第四 飲食 下

巻第五 五官

巻第六 慎病

巻第七 用薬

巻第八 養老

まず、『孝経』でも云わないような人の価値が提唱される。

「人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養われたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。是天地父母につかへ奉る孝の本也。」とした上で、

「人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。」と養生の大事を説く。

本は何を読むべきかと考える私からすれば、長く本を読んでいられるためにも、必読の本だったかと思ってしまう。経綸の本も重要であるが、そもそも生活の本とも言うべきことに対し、経験則や思い込みが働いている。これがダメなことは今井むつみ氏の『学びとは何か』(2016)で習った。

2.how-to本として読むのか?

経験論による以前の医学書の批判や、物事の考え方を読むと、当時は板本のhow-to本として読まれた。

しかし、我々が今、読むとき、フレームワークとして読むことになる。渡部昇一氏の『知的生活の方法』(1976)は本を読むことの愉しみを教えてくれた。時間のない我々は、本に直接書きこむことで、読書を妨げない方法があることを知った。それまで、梅棹忠夫『知的生産の技術』(1969)により、京大カードを持ち歩いていたのだった。このカードの現物は2011年に日本科学未来館で「企画展 ウメサオタダオ展 ー未来を探検する知の道具ー」で見たことがある。たまに振り返すのだが、今はEvernoteを使っている。

貝原益軒は、生活全般を考察の対象とした。アイデアをどう育てるかなど、貝原益軒は書いていないが、現在の『養生訓』というもののフレームワークを考えるうえでは必須だと思う。

『養生訓』を読んでいると「心静身動」とか「心静身労」か「心静体働」とも言うべき標語が浮かんでくる。

畏るるとは身を守る心法なり(巻第一)

「心法」は宋儒の語で、心の体を存養し、心の用を省察する道(三省堂 大辞林)とある。

「畏」一字で『養生訓』を要約しているのはさすがだ。

伊藤信友訳『養生訓』講談社学術文庫、1982年、1,404円、現代語訳と原文を載せているので分厚い。原文に注釈はない。

松田道雄訳『養生訓』中公文庫、1977年、617円、現代語訳を医者であり思想家である松田道雄が行っており、解説が良い。

貝原益軒、石川謙校訂『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫、1961年、907円、校訂本なので、読むには約束事を知っておく必要がある。

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