谷沢永一『本は私にすべてのことを教えてくれた』PHP研究所、2004年
「◯◯は私に(人生の)すべてのことを教えてくれた」とかいうタイトルは色々ある。◯◯は人によって「お茶」であったり「山」であったりする。長い付き合いがあったということだろう。電車で見かけたのは澤野ひとし著『人生のことはすべて山に学んだ』(角川文庫、2020年)だった。中年の小太りの男性が読んでいた。暗さがないので先鋭的なものは読まないだろうと勝手に想像してみた。私も山で怪我をしなければまだ趣味は続けていただろう。荷物を背負えない身体になったので、山から離れざるをえなかった。流行遅れのピッケル2本にリコールで貰い手がつかなかった#2のフレンズが残った。
谷沢永一はこの手の話をあちこちにで書いているから、対象の本が被るのは当たり前だ。同じ本を何度も取り上げているが、人生との関わりで述べることは余りしなかった。書評は字数制限のある仕事であった。帯を見ると「本は、「生涯の師」であり、「終生の友」である。読書に徹した人生を、思い出の書を枕に回顧する」。
本書は『雑書放蕩記』(新潮社、1996年)を第一部とするところの第二部とあとがきに書いてある(注1)。
読書好きは何度も同じ本を読む。谷沢永一は何度も書いて飽きさせない。
24章を人生の場面から振り返る。第一章は関西大学助手の辞令を学長室で受けた後、文学部長室へ呼ばれた場面が回想される。三木治文学部長より助手の任期は二年で専任講師に昇進するには三年を要するとの訓戒が述べられた。助手の任期を更新するために審査があるのだと云う。「要する弱い者を呼び出して、ちょっと威張ってみたかったのであろう」(P9)と谷沢永一は考えた。「この訓戒の特徴と見るべきは、終身の説法に終始して、研究に精を出せという意味の発言が片鱗もなかったことである。私は軽蔑の表情を露出せぬように気をつけて引き下がった」(P10)。だいぶ前の話だからどこまでが事実かはわからないが、若者に激励の言葉をかけなかったとしたらいただけない。こうしたことを書くことで谷沢永一がルサンチマンを克服できないでいることも露わになる(注2)。谷沢永一はその帰りに欲していた福島繁太郎の『エコール・ド・パリ』全三巻(昭和23〜26年・新潮社)を就職記念として買うのだった。
こんな調子で、出会った本とともに人生が回想される。例によって小田切秀雄が登場する(注3)。大正期文藝評論の宿題を谷沢永一に出すために、京都四条河原町の喫茶店で落ち合うのだった(第三章)(注4)。
(注1)あとがきを読んで、第一部を注文したのはご推察の通りである。
(注2)「明治から大正のはじめにかけての新聞雑誌では、各別に人物論が重んじられたが、雪嶺はのちのちまでその伝統の精髄を体現する存在であった」(P23)。人物批評は昔からあることだが難しいことである。貶し方や褒め方も本で学んだようである。それにしても関西大学での人事にまつわる話ばかりで呆れる。
(注3)小田切秀雄が谷沢永一に目を掛けていたことは他書で読んだのでわかっているが、本書の読者には唐突に思うかもしれない。
(注4)四条河原町の喫茶店はどこだろうか。築地かフランソワ喫茶室あたりと考えたい。
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