『社会認識の歩み』(1971)その1

読書時間

内田義彦『社会認識の歩み』岩波新書、1971年、2019年kindle版

本を読めてはいないのではないかという不安を常に覚えながら読んでいる。単に字面を追っているだけではないか。読書論と称する本は覗いてみたが、本を読むということはどういうことかを書いてあったから本は見つけられなかった。

本書は社会科学の一般書である。「社会科学の歴史と方法」というタイトルでもよかったと著者は書いている(第Ⅰ部第1章第1段落)。kindle版はページ概念がないので引用がしづらい。

著者は三つの軸という方法で社会科学の認識を深めることを進める。

三つの軸(はじめにの最後)

一 社会科学の歴史上の結節点、結節点を、一人一人の人間のなかで社会科学的認識が成長してくる結節点、結節点と対応させて考える。

二 社会科学的認識の深まりを、社会を成して存在する個体の自覚の深まりと対応させて考える。

三一及び二で見た意味での社会科学的認識の成長の結節点、結節点にこれまた対応させながら、本の読み方自体、譬喩的にいえば、点、線、面というふうに、先ず断片を断片として読むことから始めて、その都度力点を意識的に変え、古典が現代のわれわれに語りかける諸相を漸次立体的に読みとる実験を進めてゆく。

しかし、読んでいてこれは著者の読書論ではないかと思った。マキャヴェリ、ホッブス、スミス、ルソーが出てくる。私も西洋政治史を学生時代に習ったので、マキャヴェリは全集も持っているくらいだ。

まず、第一の軸である。

「社会科学的認識の芽がわれわれのなかで育ってくる最初の結節点は、われわれ一人一人が決断という行為に迫られることです。決断、賭けということがあって、はじめて事物を意識的かつ正確に認識するということが、自分の問題になってきます。事物を客観的に認識してゆくためには、断片をどう処理すればいいかというような、社会科学的認識の方法の端緒すらそこに生まれてきます」(第Ⅱ部第1章第1節第1段落)。

これは、賭けをする存在となることで、客観的認識が生まれることをいつている。著者は競馬が好きだったのだろうか。いや、寧ろ、社会科学の眼から競馬を眺めて、競馬新聞を読み比べ、事実を集めた上で賭けることに社会科学的認識の方法の端緒を見出したのだ。

マキャヴェリの本からの引用をいくつも披露する。断片を断片として読む。懐かしくなったが、自分にささる断片はなかった。そのうち『ディスコルシ』を読み直そう。『君主論』は

「自分で考えてゆくために本を読むという場合、少なくとも、さしあたって断片が、直接自分にどう突きささってくるかが問題であります」(第Ⅱ第1章第3節最終段落)。

著者は自分の眼で読むことさせない傾向性について注意喚起する。本書のなかでも何度も出てくる。

断片を読むことから始めよという。断片を自分ごととすることで、解釈(賭け)が行なわれるということを第Ⅱ第1章を学んだ。これは本当に読書論である。断片の再解釈は後でやればよいという大胆な読み方である。今日は時間になった。続きは明日以降にする。

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