『頼山陽とその時代 上』その2

読書時間

中村真一郎『頼山陽とその時代 上』ちくま学芸文庫、2017年

第1部第1章 病気と江戸遊学

中村真一郎は頼山陽の病気を我が事に惹きつけて考えている。頼山陽の神経症は15歳で再発したと母の日記にある。初発は8歳である。18歳で江戸へ遊学した。1カ年の江戸遊学はそれを悪化をさせたようだ。

第1部第2章 病気と脱奔

20歳で結婚しても神経症は良くならず、妻も神経症を病んだようである。そうした中で事件が起きる。頼山陽が父春水の出府中に脱奔してしまったのである。藩士の嫡子の出奔は重大な罪であり、頼家のお家取り潰しに繋がりかねない。この時の頼山陽の行動心理を小説家の中村真一郎が自身の経験等を踏まえて考察することろが面白く説得力がある。

頼山陽が座敷牢に幽閉されていたのは、遊学の念押さえ難く出奔し、連れ戻されてというよりは、神経症が高じて発作的に出奔しという方が説得力がある。『図書 2017年4月号』で柄谷行人氏が柳田国男の父(松岡約斎)は神経衰弱で座敷牢に閉じこめられたと書いていた。神経症の治療のために座敷牢は使われていたのである。

中村真一郎は小説家の想像力を働かせ、頼山陽が奇矯な言動を繰り返す原因を神経症だけに求めてはいない。父春水の職位による家庭環境にもあると考えている。

「私は新派の学者として採用された春水が、藩主の信用が厚くて、度々、出府させられたことが、山陽の家庭教育のうえに、やはり悪い影響を与えたのではないかと想像している」(上P043)。

単身赴任の父親の不在による母親の子への溺愛と不在を取り戻そうとする父親の子への厳格な躾という父権の行使の影響を中村真一郎は書いている。

ともあれ、頼山陽は廃人として自宅監禁、妻は離婚、後嗣は養子を取ることが藩から許されて、頼家はお取り潰しを免れた。

第1部第3章 病気その後

頼山陽はどうやって神経症の病から脱したのか。 座敷牢の中で運動はどうしていたのか。色々と疑問は残るが、『日本外史』の草稿を書くだけの集中力を保っていたようである。

しかし、神経症の話から入る頼山陽論とはいかなるものかと思っていたら、次は放蕩の話である。

『頼山陽とその時代 上』その3

コメント

タイトルとURLをコピーしました