宮崎市定『水滸伝 虚構のなかの史実』中公新書、1972年、1993年14版
『水滸伝』は読んだことがない。人気があったのは1世代前までのことなのだろうか。北方謙三氏が書いているのであるから、今でも人気があるのだろう。新歌舞伎座で『新・水滸伝』を観たのは2015年の8月であった。facebookに載せていたので、記録がある。だいたい、『水滸伝』はすぐには書けない漢字である。
歴史家の宮崎市定氏が『水滸伝』を書いたのは何かわけがあるのだろうか。好き以外に理由は見当たらない。
第一章 徽宗と李師師
宮崎市定氏のつかみのうまさに呆れる。
「いったい水滸伝は隅から隅まで、面白い話がぎつしり詰まっているのだが、まだ子供の時の私には一箇所だけ、まことに面白くない退屈な場面があった。それが梁山泊の豪傑が、所もあろうに開封府の盛り場の青楼で、李師師という芸妓の取りなしで、時の天子徽宗皇帝に面会する件りである。水滸伝は人をはらはらさせるような危ない武術の試合や、活潑な戦争があってこそ、魅力いっぱいであったのだが、まだその頃の私には、水商売の女性との対話の妙などは分かるはずがなかった。しかしいま水滸伝を取り出して読み直してみると、この箇所は単に出色の文章であるのみならず、当時の社会情勢をある程度そのまま反映させている点で、甚だ興味深いものがある」(pp.3-4)。
こう書かれたのを読んで『水滸伝』を読まないですますわけにはいられなくなる。困ったものだ。
『水滸伝』には百回本、百二十回本、七十回本があるが、入手可能なのは百二十回本が多いようだ。井波律子訳は百回本である。
本書の文献案内は流石に古すぎるので、Amazonで検索してみる。
駒田信二訳『水滸伝』(講談社文庫)は全8巻(百二十回本)
施耐庵、松枝茂夫編訳『水滸伝』(岩波少年文庫)は全3巻(百二十回本)
井波律子訳『水滸伝』(講談社学術文庫)は全5巻(百回本)
例の場面はどこに出てくるかと言うと、百回本、百二十回本ともに第八十一回である。松枝本はそもそも全64回に編集されているため。回数は原書に対応していない。
駒田本六巻
第ハ十一回 燕青、月夜に道君と遭い
松枝本下巻
第六十二 燕青、李師師によって道君皇帝に見(まみ)えること
井波本四巻
第ハ十一回 燕青、月夜に道君に遭い 戴宗 計を定めて蕭譲を賺(だま)しとる
読書相関図を考えるとしばらく読む機会は回ってきそうもないが、こうやって分析しておけば、何かの折に読むかもしれない。
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