『京都を壊した天皇、護った武士』(2020)その2

読書時間

桃崎有一郎『京都を壊した天皇、護った武士 「一二〇〇年の都」の謎を解く』NHK出版新書、2020年

京都を壊した天皇の一人は後鳥羽上皇でした。

そういえば、『「京都」の誕生』(文春新書、2020年)については、まだブログに書いてませんでした。「京都」のことはこちらに書いてあったのでした。院政期より使われたようです。ここではこれくらいにして、「京都」の誕生ではなくて拡張の話を続けます。

さて、第六章からは鎌倉時代の両統迭立が「京都」を押し広げる様を描きます。後嵯峨天皇の子の後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)に皇統が分裂しました。兄弟を天皇をさせたことが原因です。

皇統が分裂したことで、内裏も分裂しました。「後深草系の天皇は「富小路殿(とみのこうじどの)」、亀山系の天皇は「大炊御門殿(おおいのみかどどの)」という邸宅を、主に内裏として使った」(P100)といいます。桃崎有一郎氏のように学術用語である持明院統を「後深草系」、同じく大覚寺統を「亀山系」と呼ぶことのほうが一般読書にとっては分かりやすいです。

「富小路殿の所在地は、冷泉(れんせん)小路の南、二条大路の北、京極大路の西、富小路の東にあり、「冷泉富小路殿(亭)」とも呼ばれ」(P100)一町(約120m)四方でした。冷泉をれんせんと読んだ例を『御湯殿上日記』などに求めていました。

大炊御門殿は「「大炊御門万里小路殿(までのこうじどの)」とも呼ばれ、大炊御門大路の南、冷泉小路の北、万里小路の西、高倉小路の東にあった」(P104)といいます。こちらも一町の大きさでした。

京都の町ができていく様を見ていきます。武者小路、北小路、今小路と、「京都では、"新たな◯◯”を「イマ◯◯」と呼ぶ。(省略)。「今小路」も、"新たな小路"という意味の普通名詞を安直にそのまま小路名にしたものだ」(P129)といいます。

「最も重要な新設の街路は、今小路の一万北の「持明院大路」である」(P129)。「この道には異称が多く、「毘沙門堂大路」とも「柳原大路」ともいう」(P130)。

「持明院殿と京中との往来には、原則として、室町小路しか使わなかった」(P131)。この室町小路が南北を繋ぐメインストリートとなって、室町時代には今小路のところに足利義満の花の御所ができます。その話は、後醍醐天皇の話の後になります。

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