再び宿題となる

散歩時間

北鎌倉駅で降りたとき、梅の花は道に散り始めていた。久々に円覚寺へ詣る。臨済宗大本山円覚寺(えんがくじ)は谷地(やち)にあるので、山に向かって登って行く構造だ。山門の先に仏殿、大方丈が続く。法堂はない。北朝暦の応安7年の全山焼亡(1374年)で焼失してから再建されていない。仏殿の手前の梅を見ながら春にしては暖かすぎる今日の天気のためコートを脱ぎたくなる。仏殿の中はスリッパに履き替える。本尊の宝冠釈迦如来の宝冠がライトで光って大きく見える。脇侍は梵天立像と帝釈天立像である。天井には守屋多々志画伯による白龍図が描かれている。記憶とは曖昧である。大方丈の前の唐門のことは忘れていたし、舎利殿が座禅道場の門から遠くに見えて新鮮だった。国宝の舎利殿をよく見るには正月三ヶ日の特別公開の時に来る必要がある。

国宝舎利殿

国宝洪鐘(おおがね)への石段は長くて疲れを覚えた。弁天堂の茶屋は閉まっていた。西の東慶寺の屋根を見ながら、少し昔を思い出していた。
朱印帳は後払い500円であった。
巨福山建長寺は売店で予め朱印の押された紙をもらう。300円。本尊の地蔵菩薩であった。
三門、仏殿、法堂、唐門、方丈と続く。今回は河村瑞賢の墓を訪ねることが目的であったが、石段の先は通行止めになっていて、宿題は果たせなかった。

建長寺三門

鶴岡八幡宮の流鏑馬の真っ直ぐな道を抜けて東へ向かって歩く。大蔵幕府舊蹟を通り頼朝の墓を目指す。石段を詰めた先に墓がある。石段を降りて東へ進むと石段があり上がると広場になっている。右手奥に石段が二つ上に向かっていた。北条義時の墓はこの法華堂跡にあった。しかし、供養塔が建っているわけではなく、法華堂跡推定地が文献(吾妻鏡)で知られているだけである。歩き回ったがそれらしきものは見当たらなかった。AR北条義時法華堂のアプリをインストールするQRコード付きの説明板があり、観光も情報技術によって支援されているようだ。
奥の石段は二つあって途中で一緒になるが、最後は別れていて、向かって左側の石段を上がると大江広元の墓、その左側に毛利季光の墓があり、右側は柵で行けないので、一旦降って右側の石段を途中から登り直すと島津忠久の墓である。
石段を降りると、西側にやぐらがあり、三浦泰村一族の墓と伝わっているとあった。
東へ向かい、鎌倉宮を過ぎて、永福寺跡へ行く。広く、よく整備されていて、人々がそこここで楽しんでいた。池を一周できるような構成になっていないのが残念だ。
護良(もりなが)親王墓をGoogleマップで辿ると、東側の道を案内され、通玄橋を渡り、自転車の降りてきた道を上がっていくと西側の崖の上にあるはずだった。しかし、道らしきものはなかった。もどって理智光寺橋を渡るとすぐに護良親王墓であった。令和元年9月の台風の傷跡は残り、石段は閉鎖されていた。

護良親王墓

鎌倉宮までもどり、宝物殿の拝観料300円を納めて、大塔宮護良親王が幽閉されていたと伝わる土牢を見る。そして、明治になって大塔宮を鎌倉宮と改めたことをパンフレットで知った。鎌倉宮=大塔宮であった。なぜ鎌倉宮であるかわからなかったことが氷解した1日だった。
本日は都合16kmを歩いて膝が悲鳴を上げたことをここに記しておく。Montaigneのように自分をどこまで偽りなく書けるかはわからないが、記録は残しておくことにしたい。
注)護良親王の墓が妙法寺にあるとwebにあった。護良親王の子の日叡が中興し墓を建てたという。次は松葉ヶ谷(やつ)を訪ねるリストに入れることにした。

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