『翻訳教室 はじめの一歩』(2021)

Goinkyodo通信 読書時間

鴻巣友季子『翻訳教室 はじめの一歩』ちくま文庫、2021年

序章を読むと鴻巣友季子氏の主張は明らかである。

「翻訳は初心がすべてなのです」(P12)。

「想像力の枠から出ようとすること。少なくとも、出ようとする意識をもつことです。言い換えれば、人間は自分の想像力の壁のなかで生きている。そのことを忘れないことだと思います」(同上)。

そのためには、いろいろな「感情」を経験する読書が有効だという。

そこで、「翻訳とは何か」が問われる。

「翻訳するには、まず原文(他言語で書かれた文章)をよく読まなくではなりません。訳者というのは、まず読者なのです。翻訳というのは、「深い読書」のことです」(P14)。

読書は他者との出会いである。鴻巣友季子氏は「翻訳とは言ってみれば、いっとき他人になるのです。」(P15)という。「当事者となって実体験することなのです」(P16)。

こうして、鴻巣友季子氏の母校である世田谷区立赤堤小学校六年二組に「ようこそ先輩 課外授業」(二◯一二年二月放送)で訪れて三日間小学生に翻訳にチャレンジしたことを気づきとして第一章以下で展開していく。

第一章 他者になりきる
第二章 言葉には解釈が入る
第三章 訳すことは読むことに

Shel SilversteinのThe Missing Pieceを遺族の許可を得て訳すことになる。翻訳本は『ぼくを探しに』(講談社、1977年)で倉橋由美子の訳である。この絵本はどこかで見たことがある気がする。

この章は「ようこそ先輩 課外授業」の内容を再現しているので、この部分が長い。この授業の組立を考えるのは結構大変だ。そもそも小学六年生では辞書も引いたことがない子供ばかりだ。小学生の義務教育に英語を取り入れたといっても、「口頭でのやりとりが主で、読み書きは授業であまりやらないとのこと」(P70)が当時の状況である。

翻訳するときには、「能動的に読む」ことが大切だという。この内実は鴻巣友季子氏の読書人生で振り返っている(P184以下)。勝手に読むこととは違うオリジナルな読み方とは何かを考えさせてくれる。

こうやって、「翻訳というのは、自分の中からころがりでて、いっとき他者の言葉を生きることです。でも、もちろんそれを生きるのはあなた自身で、最後に訳文を書くときには、もういちど自分にもどってこなくではなりません」(P179)。

読書の究極である翻訳を通じて本を読むとはどういうことか考えさせてくれた。

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