井筒俊彦『意味の深みへ 東洋哲学の水位』岩波文庫、2019年第2刷
第2論文「文化と言語アラヤ識ーー異文化間対話の可能性をめぐってーー」
「文化とは、そもそもどのようなものであるのか。(省略)世のなかには、特に人間的経験の事象の場合、それを学問的あるいは哲学的考察の対象として取り上げる時、うまく定義できないもの、定義しないでおいたほうがかえっていいものがたくさんある」(P60)。
無理に定義しょうとすると、わけがわからなくなる古典的実例として「アウグスティヌスの時間論」を挙げていたが、そもそも知らないので気になるが、本論と関係がないので無視することにする。
「異文化間の対話は可能か」という問いを言語哲学的に考察してみようというのだから、「文化」に対して思うところがあるのは当然だと考える。
「そこで一応、仮に、「文化」とは、ある人間共同体の成員が共有する、行動・感情・認識・思考の基本的諸パターンの有機的なシステムである、と考えておくことにしよう。これでも一種の定義かもしれないが、定義としても、要するに暫定的、表層的な定義にすぎないのであって、「文化」の源に「言語アラヤ識」を見ようとする私の意図からは程遠い」(P62)。
「文化」の規制力を考えるにあたって、「文化と経験的「現実」の関係、「現実」と言語の関係を考察している。
「人間は、秩序づけられた、すなわち、文化的に構造化された、「世界」に生きる。カオスから文化秩序へ、この転成のプロセスを支配する人間意識の創造的働きの原理を、私は、存在の意味分節と呼ぶ」(P64)。
こうやって現在進行形で読んでいるけど、読書時間は細切れな通勤電車の中なのだ。
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