『なぜ世界は存在しないのか』(2018)

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マルクス・ガブリエル、清水一浩訳『なぜ世界は存在しないのか』講談社選書メチエ、2018年、2019年第13刷

清水一浩氏の解説を丁寧に読むことで、「新しい実在論」の位置付けを理解しないと、始まらない。以下は抜書である。それにしても清水一浩氏の解説はよくできている。

訳者あとがき

「ここで問題となる「新しい実在論」は、イタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリスの唱道した思想運動で、2011年8月8日付けの『レプブリカ』紙に掲載された「ニュー・リアリズム宣言」に発する」(P296)。

マルクス・ガブリエルが「新しい実在論」を最初に唱えたわけではないらしい。

近代思想家であるデカルトは「我想う、ゆえに我あり」ということで、疑う自分自身の存在を認めた。

ポスト近代主義は、「形而上学」と「構築主義」がデカルトの素朴な存在論を批判して出てくる。清水一浩氏のまとめでこの2つをざっと理解する。

「形而上学」

「一方での形而上学は、いかなる事象にも、人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在することを主張する。それによれば、ひとつの事象がもつ複数の様相は、どれも認識主体の主観的な偏向による幻想であって、当の事象の本質に還元されうるし、されなければならない」(297)。

→「形而上学の欠点は、事象の諸様相それぞれのリアリティを考えられないことにある」(298)。

「構築主義」

「他方での構築主義は、いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定する。それによれば、ひとつの事象についても、さまざまな認識主体によって見られた複数の様相しか存在せず、それらの諸様相の交渉から当の事象のイメージが社外的に構築されるのであって、そうした構築作用から独立した本質があるとする考えのほうこそが幻想にすぎない」(297-298)、

→「構築主義の欠点は、構築作用の収斂するひとつの対象のリアリティを考えられないことにある」(298)。

そこに、「新しい実在論」が当時する。事象そのものの存在を認める立場である。デカルトが疑う自分自身の存在を認めたように、事象そのものがあると認めた方が都合が良いと考える。人間の認知は主観的なものに過ぎないが、事象の本質がないと言ったり、我々のイメージに過ぎないと言うのはやり過ぎであり、素朴に事象の存在を前提にした議論の方が我々の常識的感覚に合致する。

「新しい実在論」

「この両者にたいして新しい実在論は、さまざまな認識主体による対象の構築を認める(どんな事象にも複数の様相があり、それぞれの様相にそれぞれのリアリティがあることは、事実として認めざるをえないから)と同時に、認識主体による構築作用とは別に対象それ自体の存在を認める(さもなければ、もろもろの認識主体が同じ対象に関わっていると言えなくなってしまうから)。対象それ自体の確固とした存在を認めるにあたって構築主義の議論を経由するところに、たしかに素朴な実在論ではない「新しい実在論」の特徴があるのかもしれない」(298)。

「新しい実在論の利点として、ガブリエルは、批判性と平等性を挙げている」(298)。

「新しい実在論は、事象それ自体の実在性を認める。この実在性がなければ、そもそももろもろの主体が同じ事象に関わっていると言えなくなってしまう。つまり新しい実在論は、もろもろの主体に共通の準拠点を与える(平等性)。この準拠点があってこそ、同じ事象にたいするもろもろの主体それぞれの関わり方ーーたとえは当の事象の「認識」ーーの当否を決することができる(批判性)。かくして新しい実在論は、ポストモダン思想の構築主義を経た後に、批判性・平等性の価値を再獲得する新しい啓蒙主義の運動でもあるとされるわけである」(298)。

タイトルの「なぜ世界は存在しないのか」をガブリエルは順を追って説明するが、繰り返しも多く、もっとスッキリ書けなかったのだろうか。いずれにしても「なぜ世界は存在しないのか」ということに特段の意味はなかった。それはガブリエルの定義から導かれたものだからだ。様々な(意味の場としての)世界が存在する。それらを包摂する世界というものは存在しない。

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