『伊那谷の『老子』』(2004)その4

読書時間

加島祥造『伊那谷の老子』朝日文庫、2004年

加島祥造の現代詩訳に入る前に私は寄り道をした。『老子』はどう読まれてきたのかを確認しようとしてみた。2、3の本をめくってみたわけである。

加島祥造が誰にでもある『老子』体験について書いていた(「初の老子体験」P92-100)。寺田寅彦の晩年の随筆に『老子』と邂逅する話があり、60年後に加島祥造がたどったのと同じ経緯の話だった。晩年になって寺田寅彦はドイツ語訳で、加島祥造は英訳で『老子』について分かりかけたという。

加島祥造の時もそうだし、私も『老子』については『論語』ほどには習わないし、『論語』ほどには読んでいない。『老子』については「無知」であるに過ぎない。世の中に『老子』について様々な人が書いているが、本当は何のことだろうと思っている。『老子』の哲学には取っ付きにくいところがある。加島祥造も竹内義雄訳注『老子』(岩波文庫、1943年)で「戸口から追い返された」(P97)という。私も老荘思想に若い頃に触れたけれども、「無知」のまま、今日に至ってしまった。

私は子安宣邦先生の「論語塾」を通じて、『論語』の読み方を知った。『論語』の原テキストは無いし、求めることはできない。どう読まれてきたかがあるだけであると。だから、私も原老子を求めようとはしない。原論語と同じく不可能なことであるから。言説として『老子』を知ろうとして福永光司の本をその時々に読んできた。誰でも一遍は覗いてみたくなるが、読みきれないのが『老子』なのだ。

加島祥造が『老子』を詩(ポエトリイ)と言っている。「ただし、詩といっても叙情詩ではない。詩人T・S・エリオットは英国の形而上派詩人を評して「その思想が薔薇のようににおう詩」と言った。英語圏ではイメージや比喩や暗示に富む思想の表現を「詩」として賞味する。逆説や神秘性や飛躍した想念が、深いリズムとともに伝わるとき、それを詩として喜ぶ。この点で『老子』八十一章はまさにポエトリイなのであり、それを平板な散文にして意味だけ伝える訳にするのは、『老子』への冒瀆なのだ」(P108-109)。

そして、「名のない領域」(P112-)以降の加島祥造の現代詩訳の『老子』を読むことで、漢字に閉じ込められていた想念が開けたような気がした。言葉にならないからイメージで表現しているものを言葉にしようとしてはならない。そのまま味わえばよいのだ。読むとはどういうことかという私のテーマとも深く関係しているのである。

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