『曼荼羅の思想』(2005)

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鶴見和子・頼富本宏『曼荼羅の思想』藤原書店、2005年

あうん堂本舗で買ったことは以前書いた。ここに書くような読み方はしなかったので、そのままになっていたが、ふとしたきっかけで、これを書いている。

123頁にある絵図は南方曼荼羅である。

本書は南方熊楠が当時高野山真言宗管長の土宣法龍(ときほうりゅう)に宛てた書簡に書いてあった絵図である南方曼荼羅を巡る対談から始まった。種智院大学の学長だった頼富本宏(よりとみもとひろ)と鶴見和子の初めての対談になる。土宣法龍を濁らない読み方としたことは、頼富本宏も支持している。

対談というものはやはり難しい。二人の前提が噛み合わない中で大きな議論をされても困る。二元論とか言われても、キリスト教二元論と中国の二元論とインドの二元論の違いを理解していないので、「水平的」とか「垂直的」と言われてもよくわからないまま読み流すしかない。実在論についてもそんな簡単に扱ってくれるなという気持ちが起きる。

鶴見和子が「萃点(すいてん)」に拘る理由がよくわからなかったが、終わりまで読んでいくと、鶴見和子の著者に『南方熊楠・萃点の思想』(藤原書店、2001年)があることがわかった(P191)。

熊楠による学問の方法論「南方曼荼羅」について、鶴見和子は「核の周りを動く電子の軌跡のような線と、そこにクロスする直線。熊楠は、すべての現象が一カ所に集まることはないが、いくつかの自然原理が必然性と偶然性の両面からクロスしあって、多くの物事を一度に知ることのできる点「萃点」が存在すると考えた」(P14)。

頼富本宏は「私は河合隼雄先生と、心の曼荼羅について日文研で対談をやらせていただいたときに、質的な違いを曼荼羅で読みこむ場合に、もちろんそれを直線で表現するこど不可能ではないんですが、曼荼羅における質的な変化、その変化するポイントが、先生もおっしゃってる、て萃点というふうに、私は解釈しております」(P73-74)。

鶴見和子は萃点が仏教用語かどうか確認したが、頼富本宏も熊楠の造語と認めていた(P74)。

頼富本宏は熊楠の線の曼荼羅の独創性を認めた。

「あれは明らかに開かれた曼荼羅で、因果律に象徴される必然の世界だけでなく、他の可能性を含めたといえましょう」(P109)。

鶴見和子はもう少し踏み込んだいいかたになる。

「曼荼羅から見ると、因果律だけが究極の目的ではないはずだ。つまり、必然性と偶然性の両方が、どのように絡みあって人間社会をつくっているか、自然界をつくっているか、ということが大事だ。これがひらめいたんですね。それで曼荼羅をもってくると、この中には必然性と偶然性が同時に捕まえられているじゃないかと。そういう考えだったんです。それをどうモデルにするか、目に見える形にするかというので、あんな変な図を描いたわけ」(P103)。

この後、熊楠の「大日滅心」の解釈は宿題となって、P110に囲で頼富本宏が書いている。

「さて、熊楠は胎蔵界大日如来をすべての世界を包む現象界、金剛界大日如来を全宇宙の発生体片山摩訶毘盧舎那)として捉えている。その金剛界大日如来が宇宙に対して広がる動きを見せた瞬間、その金剛界大日如来は純粋なエネルギー体ともいうべき存在となる。その瞬間、大日如来は「心」的要素を離れた存在となり、そこに一切の「心」的要素を持たない純粋な「物」が発生する。これが熊楠のいう「大日滅心」であるが、現代の宇宙論や物理学でも議論される問題を両界曼荼羅(大日如来)の思想モデルで考察しようとした努力に驚く」(P111)。

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