『和歌とは何か』(2009)その7

読書時間

渡部泰明『和歌とは何か』岩波新書、2009年、2013年第3刷

終章ーー和歌を生きるということ

終章を読んで長かった読書も終わった。電車の時間で読んでいるので細切れになったが、私にとって新奇な話が多かったので、結構楽しめた。おススメ本といってよい。

近代短歌は自分の気持ちを素直に表すものだと思っていたが、気持ちをそのままぶつけても詩にはならないと思っていた。和歌が「現実の作者」とは異なる自分、「作品の中の作者」を意識した表現と捉えると、著者のいう演技というのが腑に落ちてくる。

現代短歌にも虚構が入るのは俵万智氏の『サラダ記念日』も同じで、「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」は「褒められた料理はカレー味のから揚げであり、その日は「七月六日」でもなかった」(P14)と書いてあった話を思い出した。正岡子規の俳句である「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」も何時ぞや読んだ本では、東大寺の鐘の音だと指摘があった。法隆寺で詠んだ実景の句ではない。だから、現実の出来事と詩という作中の真実は異なってよい。子規の写生にも取捨選択はあった。子規の句が夏目漱石への返礼の句であるとすれば、すでに詠んだ東大寺の鐘でないほうが気持ちは伝わるのだ。

歌が「心」を現すことだとしたら、捉えどころのない心をどう表現したらよいのだろうか。作家が「花や月の美しさを表現する」(P227)とき、心が社会化すると著者はいう。「それはすでに個人的な感情ではない。花月に感動することそのものが、宮廷人としての資格を表すのであり、それを表現するとは、宮廷人の思いを望ましい形で代弁する行為である。だから、風物への感動の表現とは、演技されるもにのにほかならい。ただ感情をストレートに表せはよいというものではないのである」(P229

)。和歌とは宮廷人のものであった。

ここまで読んできて、自分がラブレターをほとんど読んだことがないことに気がついた。気持ちを伝えるというのは難しい。これは時候の挨拶をするように、コミュニケーションの型がないと成立しない。自分の気持ちをどう伝えるかは、何時でも悩ましい。色々と書簡集を読んできたが、立派な人達のものだけにラブレターは入っていないか、読むのが恥ずかしい気持ちになるかして読み飛ばしてきたのだろうか。英語でラブレターのようなものは書いた気がする。それを送ったかどうか記憶はすでに定かでない。

注)森敦の『天に送る手紙』(1990年)がラブレターであろう。

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