『歴史の旅 戦国時代の京都を歩く』(2014)その4

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河内将芳『歴史の旅 戦国時代の京都を歩く』吉川弘文館、2014年

鴨川を渡る

洛外は一本の線でつないで行けるような歩きかたをすることはむずかしいという。洛中は通りが碁盤の目のようになっているので一筆書きができたが、洛外は広いし見所は離れている。ならば、重なってもよいので、自分なりのコースを作ってみればよいわけである。

朧谷寿先生の講座で石出帯刀吉深の『所歴日記』(駒敏郎, 森谷尅久, 村井康彦『史料 京都見聞記 第一巻 紀行Ⅰ』宝藏館、1991年収録)を読んでいて、江戸時代の人の達者振りに舌を巻いたことがある。何たる健脚であることか。現代人にそれを期待することはできないのであるが、鴨川を渡るで触れられた範囲は十分歩いて回れる。

河内将芳氏は鴨川について、五条大橋から四条大橋と上がって最後に三条大橋へ向かう。洛中洛外図には網のようなものを持った人々が川の中に幾人もいる。河内将芳氏は拡大写真を載せただけで説明はしていない。戦国時代に鴨川にかかっていた橋は多くない。話は五条の橋の東側から始まるが、東側の説明はない。私なら五条の橋は東の橋と西の橋に分かれ、西の橋を渡ると大黒堂と法城寺が間の島にある。この橋を渡って洛中から洛外の東山にある清水寺へ参詣するのであるとしたい。説明の順からすれば西側から始め、西の橋を渡ったところにある大黒堂に居るのが清水寺に関係する勧進聖であることは、「清水寺参詣曼荼羅」で分かるという順序で説明してくれると分かりやすい。

どうも歩くコース設定が鴨川に掛かる橋の東から見える光景(過去の光景は見えるはずもないので、幻視するのであろうが)をどうしても説明したいように思えてならない。Googleのストリートビューの洛中洛外図版とかがあったらよいと思う。

五条大橋を東から西へ渡り、木屋町を上り、松原橋を西から東に向かい松原通の先にある清水寺に想いを馳せ、川端通りを上り、団栗橋は渡らずに、四条大橋を東から西へ渡り寺町通りを上る。三条通りから三条大橋の東詰で洛中洛外図に三条の橋が書かれていないことを説明して、東の粟田口の手前に描かれている弁慶石についての謂れをひとしきり話したいのであろう。弁慶石の話は瀬田勝哉氏の『[増補]洛中洛外図の群像』(2009年)に詳しい。弁慶石を話すのであれば今の三条麩屋町にある弁慶石のところが相応しいと思う。ここは弁慶石町である。

注)天正三年の旅人としてエピローグで島津家久が巡った洛中洛外が書かれた『中務大輔家久公御上京日記』の内容が紹介されているが、1日の行動範囲が広い。名所や歌枕など事前に押さえた上での見物であろう。これらが『上杉本洛中洛外図屏風』と多くが重なるという指摘がされていた。本書では紹介しきれていないのが残念である。

キーワード

#京都 #河内将芳 #洛中洛外図

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