子安宣邦『新版鬼神論ー儒家知識人のディスクール』白澤社/現代書館、2002年
1.読むに至った経緯
論語塾の後の食事会である人が質問した。「子安宣邦先生の著書で英訳して欲しいものは何ですか?」。子安宣邦氏が『鬼神論』であると回答した。『鬼神論』は日中韓の比較文化論としても読めるということの趣旨であった。
儒家にとって「鬼神」は論語の有名な孔子の言葉で論じることがないものと思っていたが、「鬼神論」が後代に成立したのは何故か。宗教としての儒教を加地伸行先生が書いていたが、読み直して問題意識を確認したくなった。
2.鬼神論と本書の構成
鬼神論とは儒家言説上の問題である。
鬼神とは人間の世に何らかの形でかかわりをもち、あるいはかかわりをもってきた神霊的な存在(P8)
新版序 鬼神はどこに住むのか
旧版序 「鬼神」のディスクール
1章 「鬼神」と「人情」
2章 「有鬼」と「無鬼」と
3章 「陰陽の鬼神」と「祭祀の鬼神」
4章 朱子「鬼神論」の注解
5章 「鬼神」を解釈する言説
6章 「鬼神」と「理」
「鬼神論」は儒家の言説上の問題であるということはどういうことか。新版序を二度読んで全体の見通しをつける。
旧版の序「鬼神」のディスクールは『批評空間 第5号』(福武書店、1992年4月)は「本書の全体を見通しうる性格をもった総論として、専門的な各論よりも分かりやすく書かれたものであり、この序論によって本書の内容を理解されてもけっこうである。」(あとがき)としている。
各論を見ていくことにしょう。
第1章は平田篤胤の『新鬼神論』である。
第2章は副題「鬼神と徂徠のアルケオロジー」からも分かるように荻生徂徠の鬼神論である。
第3章は山片蟠桃による朱子「鬼神論」の解体である。
第4章は平田「篤胤を視座として「鬼神論」という儒家の言説を構成する知のありようを浮き上がらせる」(P129)。
第5章は朱子「鬼神論」の言説的構成である。
第6章に「「鬼神」と「理」三宅尚斎の「祭祀来格説」をめぐって」を『思想 第809号』(1991年11月)からもってきた。既読感があると思ったら『江戸思想史講義』(岩波現代文庫、2010年)では第5章 「鬼神」と「理」ー「祭祀来格」と朱子学派の言説として掲載していた。山崎闇斎の学派である崎門派の言説への一つのアプローチを示したものだ。
注)
『鬼神論』は福武書店から1992年に出している。
『新版鬼神論』は旧版に新版序 「鬼神はどこに住むのか」を付けたものである。
『論語』先進第十一第11章
季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能わず、焉んぞよく鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。(P12)
季路とは子路のこと
季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉能事鬼。曰。敢問死。曰。未知生。焉知死。
加地伸行『儒教とは何か 増補版』(中公新書、2015年)
いつの間にか増補版になっていた。1990年に初版がでている。
ディスクール
言説と訳される。ミッシェル・フーコー『言説の領域』(河出文庫、2014年)
アルケオロジー
ミッシェル・フーコーの用語、『知の考古学』(河出文庫、2012年)
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