後藤重郎校注『山家集』新潮日本古典集成、1982年、2011年第10刷
久しぶりに『山家集』を手に取る。カルチャーラジオの古典購読で上智大学の西澤美仁教授の「西行をよむ」を何回か聞いているうちに西行が読みたくなった。たまたま開けた段ボール箱に入っていたので、嬉しくなって読み始めた。岩波文庫を買おうかと思っていたところだった。
愛読書が自分を救う(前田英樹『愛読の方法』ちくま新書、2018年)を読んで、古典の読み方を改めて教えてもらった。先日、ふたば書房京都駅八条口店で買って読んで、自分にとって何度も読める本は詰将棋か歌集しかないと思った。エセーは今の私には疲れる。10分も読むと眠くなる。仕事の本は昼間に読んでいるので、夜、勤め先から帰って来て食事をとった後、ソファに座って精神を安らいでくれるものは、BGMか読書しかない。
西行はさまざまな人が引用するのを読んできたし、新古今和歌集で代表する歌は見てきた。松尾芭蕉が慕う西行について通しで読んでみたくなって本を買ったのだが、あれもこれもと手を出しているうちに、興味が移り、片付けられていた。箱付きの本からパラフィンを傷めないようにそっと出して後藤重郎氏の解説を読むと、西行(円位)の生涯にそって読むことは難しいことが分かった。
「和歌に関しては作歌年次不明のものも多く、従って、その歌風変遷の跡をたどることは難しく、全体として他の同時代歌人の差如何を問題とせざるを得ない」(P453)。
もともと、歌人の作歌年代が分かることのほうが稀なので、そこまで突き詰める必要はないので、自分がどう感じるかを判断して読むことにする。歌はもう西行の手を離れているのだから、受け止めるのは自分しかいない。誰も自分の代わりに受け止めてくれるわけではない。愛読とはそういう孤独な営みである。
『山家集』は春から始まる。春は立春から始まるのは古今集に始まる部立である。従って、すでに配列は作歌年次を離れている。
「近年、『山家集の成立に関してはさまざまな考察がなされており、何次かにわたる増補をへて、今日の姿にまで成長したと考えられている」(P455)。
そうしたわけで、ここに書き出す歌もなく、うぐひすの鳴き声の歌となった。立春の歌の工夫は、古今和歌集の時代ならともかく、新古今和歌集の時代では題詠としても面白味を感じない。
#文学 #西行
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