井筒俊彦著、古勝隆一訳『井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 老子道徳経』慶應義塾大学出版会、2017年
今度は、井筒俊彦の『老子道徳経』の英訳、
『Lao-tzu: The Way and Its Virtue』(慶應義塾大学出版会、2001年)から古勝隆一(こがちりゅういち)氏の日本語訳を読む。注に別解が多く取り上げられているのは、古勝隆一氏によると「別解を通して、井筒が『老子』を読み解いた振幅を理解することが可能で、これも玩味の対象となりえよう」(P245)と書いている。もっともである。
では、訳を見て行こう。
第一章
「道」(という言葉)によって示されうるような道は、永遠の〈道〉ではない。
「名」(という言葉)によって示されうるような名は、永遠の〈名〉ではない。
〈名無きもの〉は、天地の始め。
〈名有るもの〉は、万物の母。
それゆえ、永遠の〈無〉の状態の中は、人は〈道〉の神秘なる真実を見る。
永遠の〈有〉の状態の中は、人は〈道〉の帰結を見る。
この二つのあり方は、起源において一つであり等しい。しかしいったん外に出ると、(二つの)異なった名前を帯びるのだ。
(原初の状態において)等しいものである時、それは〈神秘〉と呼ばれる。
まさにそれは、さまざまな〈神秘〉の中の〈神秘〉である。そしてそれこそが、無数の驚異の出で来る門なのだ。
井筒俊彦の英訳本から古勝隆一氏が訳したものを読んでも詩を感じるのは、加島祥造訳に慣らされたせいでもなさそうだ。『老子』は詩であるのだ。井筒俊彦の亜細亜的霊性訳は「玄」を〈神秘〉と古勝隆一氏に訳させる。注では、「「神秘」、原文の「玄」とは、もともと黒色に赤色を混ぜた色を意味する言葉。それは神秘なる深遠さ、現象上の多様性の奥にあり、しかもそれを超えて存在している。絶対的真実の完全な暗闇について言われたものである」(P23)としている。〈神秘〉と訳すのは井筒俊彦が使った英語によるのであろうが、詩性が失われることになりはしないか。
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