『倭の五王』(2018)を読む

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河内春人『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』中公新書、2018年

1. 中国の史書に倭国の空白がある理由

古代の日本を知る手掛かりが中国の史料にあるが、満遍なくあるわけではなくて、三世紀の『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝倭人条と五世紀の『宋書』夷蛮伝倭国条と間が離れている。前者が邪馬台国の話で、後者か倭の五王の話である。本書はいわゆる倭の五王ー讃・珍・済・興・武を扱う。

邪馬台国以降に倭の五王まで中国の史書に日本のことが登場しない。150年以上も時間が空いたのは、中国が五胡十六国の時代になって南北の対立となり倭に関心が向かなかったと河内春人氏はいう。魏は呉の背後の東シナ海上に倭があると考えたから、倭の朝貢を歓迎したと岡田英弘の本で読んだことがある。

2.讃は何故建国したばかりの宋に使者を送ったのか

讃が宋に朝貢したことを東アジアの情勢の中から河内春人氏は考える。高句麗、百済と相次いで東晋を襲った宋王朝に朝貢したことで、出遅れた倭も朝貢せざるを得ない東アジアの情勢の変化があったという。倭国は朝鮮半島に鉄資源を依存しており、加那との関係からも高句麗の南下政策で軍事的緊張度を増した朝鮮の情勢に無関心ではいられない。倭国王を冊封され、安東将軍を授爵した讃は将軍府を開設した。日本における最初の幕府だという。

讃の弟の珍も宋に使者を送り冊封を受けたが、次の倭済とは王統が異なると河内春人氏はいう。済の子は興である。武はその弟とある。この頃の王位継承は直系世襲ではない。

3.日本側の史書との対比の限界

ここまで中国側の史書によって倭国王の承継をみてきたが、日本の記紀と対比することはどのような意味があるのだろうか。河内春人氏は記紀比定を音韻ですることはできないといっている。ワカタケルに比定される武についても、日本書紀の雄略天皇に比定することには留意が必要だといっているのだ。幼武を獲加多支鹵と読むには漢字の訓読みが日本に始まっていなければならない。それは1世紀も後の話だ(「6世紀後半の岡田山一号墳出土鉄剣銘」沖森卓也)。

4.倭の五王の時代の終焉と継体大王

倭の五王は高句麗、百済の王たち同じく南北朝時代の中国に朝貢し、冊封されることで東アジアの国際情勢に応じた。王が豪族達に将軍位を仮授し、それを中国の皇帝に認めてもらうことで、国内を治めた。

中国的な名前である讃・珍と済・興・武などに倭を名乗る有力な集団が分かれていたことは古市古墳群や百舌鳥古墳群から推測される。これに継体大王の集団を含めて3つの王族集団があったとする。これらは記紀によるとホムタワケを始祖とする集団であると系譜上は考えられる。継体大王が6世紀初頭に現れると百舌鳥古墳群に大規模な古墳が造られなくなることで、王権は継体大王の集団に移行したことが分かる。

「継体大王の王としての立場は脆弱であった。それは次の王への王位継承が不安定であることを意味する」(P224)。

継体大王は「王位継承候補者を絞り込むシステムとして大兄(おおえ)という制度を創出する。大兄制度とは、同じ母から生まれた王子たちの小集団の代表を大兄と呼んで王位継承候補者とする仕組みである」(P224)。これで中大兄皇子の意味が分かった。

5.結論

五世紀の中程に現れた倭の五王の時代を中国側の史書からみるという話は面白かった。特に記紀の編纂を考えるにあたり無文字社会の記憶の継承を挙げたことは示唆に富む。川田順造の『無文字社会の歴史』(岩波書店、1976年)のアフリカの部族首長の継承の話が出てきて嬉しくなった。

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