子安宣邦編著『三木清遺稿「親鸞」』白澤社、2017年
子安宣邦先生が解説を書き結語も載せている。昭和思想史研究会でテキストと共に販売していたので勿論購入した。
市民講座は津田左右吉の『我が國民思想の研究』の「平民文学 上」を述べたところで、三木清の遺稿の話になった。私は、高校の同窓会があったので最後まで聴くことはできなかった。「死は観念である」という三木清の「死について」や「孤独について」なども『人生論ノート』から抜粋されているし、「伝統論」も付録として付けてあり三木清の「親鸞」を読むため準備を子安宣邦先生がしてあるのは助かる。三木清はそうやすやすとは読めない。子安宣邦著『歎異抄の近代』(2014年)の三木清論は理解できていなかった。この解説は三木清論を「姫路の山陽教区同朋会館で2015年3月4日に行われた講演のために書き改めた」もので読みやすい。結語には夫人の死から「死は観念である」ことを受けとめた子安宣邦先生の言葉が印象に残った。死によって断絶されることで「彼女の遺体の上に彼女の初志が蘇るように思われた」。死者を死者として考えることはどういうことであるかが示されたのであった。
昭和21年『展望1月号』に三木清の遺稿「親鸞」を唐木順三が載せたのは、唐木順三の本で読んだことがある。子安宣邦先生は「ちなみに私の思想史作業は、ある言説の成立の現場に立ってみる、あるいは思想の成立をそこで追体験してみるといった現場主義を方法論的立場としてもっている。これが対象についての先入見を改めさせ、新たな発見を私に導いていくのである」ということから、『展望』創刊号を見に国会図書館へ行った。そこで、「昭和21年1月の創刊号を含む最初期の『展望』誌は国会図書館の憲政資料室が収蔵する占領軍による検閲図書に含まれていた。私はその資料室で敗戦時の日本を追体験するようにマイクロ・フィッシュで読みにくい『展望』創刊号を見ていったのである」。
私は勤め人でもあるし、マイクロ・フィッシュは老眼にはちょっと辛いので、Amazonを覗いてみると、日本近代文学館編の復刻版が1982年に講談社から出ている。それで良かったが、どうせならと古本屋で『展望』創刊号と2号を買い求めることにした。2号には唐木順三が「三木清といふひと」を書いている。私も唐木順三の怒りを追体験したいと思ったのである。
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