『古代の東国1 前方後円墳と東国社会 古墳時代』(その2)

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若狭徹『古代の東国1 前方後円墳と東国社会 古墳時代』吉川弘文館、2017年

しばらく睡眠促進剤として使ってきた。巨大前方後円墳や朝鮮半島とのつながりをもつ上総の首長を読んでても眠くなるしかかなったのでちょうどよかったのだった。しかし、4章 「変質する東国と王権の関係」あたりから、『日本書紀』と考古学を結びつける踏み込んだ記述がみられ、眠気が吹っ飛んだ。

継体・安閑期の「筑紫君磐井の乱」と「武蔵国造の乱」が王権と地方勢力の関係の画期をなしているという。

「武蔵国造の乱」は武蔵地域の首長一族内部の権力闘争である。著者の『日本書紀』の記事をそのまま引用する。

「武蔵国の国造の地位を争い、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が争った。小杵が上毛野君小熊(おぐま)に助力を仰ぎ使主を殺そうとすると、一方の使主は朝廷に詣でて訴えた。朝廷は小杵を殺し、使主は国造となった。使主は、その喜びを隠すことができず、横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(おおひ)、倉樔(くらす)の四ヵ所の屯倉(みやけ)を献上した」(P159)。

「6世紀に武蔵の首長権に関与するほどの圧倒的力量をもつ上毛野の首長を考古学の面から絞り込むとすれば、墳長145メートルの七輿山古墳の被葬者以外に考えがたい。ほかには110メートルを超える前方後円墳がみられないからである。よって、筆者は七輿山古墳の被葬者こそが、『日本書紀』の編纂時に「上毛野君小熊」に擬された人物にほかならないと考える」(P163)。

そして、乱後の上毛野(かみつけの)と武蔵の古墳の推移の違いの理由を推定する。

「武蔵への影響力行使を危険視した王権側は、継体の没を境として、小熊に擬せられた人物あるいはその後継者の力を削減した。これが後に述べるように埼玉古墳群が継続する一方で、七輿山古墳の後に大型墳が続かない事情の背景であろう」(P168)。

「筑紫君磐井の乱」と「武蔵国造の乱」の意義を要約する。

「雄略期に排除した葛城・吉備の勢力に続いて、列島の実力者であった北部九州と上毛野を換骨脱退(ママ)したのが、継体・安閑期の2つの乱の意義とみるべきであろう」(P168)。

屯倉の話になる。考古学的に検証可能な「佐野屯倉」を挙げ、上野三碑が出てくる。多胡碑に「佐野三家」とあるが、正史には記載されていない屯倉名である。

そういえば『多胡碑が語る古代日本人と渡来人』(2012年)を段ボール箱の中で見つけて、残す方にしてあったはず。関連箇所なので探して読んでおきたい。

『古代の東国1 前方後円墳と東国社会 古墳時代』(2016)

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