『「ひとり」の哲学』(2016年)

読書時間

山折哲雄『「ひとり」の哲学』新潮選書、2016年

「ひとり」の哲学

「ひとり」で考えるという基本が揺らいでいるのか。本書を読み始めたときの疑問である。

「ひとりで生きるという意識が、われわれのあいだからしだいに消え失せていったようだ。ひとりで事を処する、という心構えのようなものが希薄になっていた。「ひとり」で生きる暮らしの劣化、といっもいい。口はばったいいい方にはなるけども、「ひとり」の哲学があとかたもなく雲散霧消していたのだ」(P8-9)。

山折哲雄氏は「ひとり」が今こそ大切だという。

「ひとりで立つことからはじめるほかはない。そして、ひとりで歩く、ひとりで坐る、ひとりで考える。ひとりの哲学を発動させなければなるまい、そうも思う。からだの関節と筋肉をもみほぐす。そこに新しい血流を通す」(P9)。

「対象をとらえ、握りしめ、つかみ直し、もみほぐす。物事を整理するのではない。分類するのではない。分析したり、意味づけしたりするのでもない。ただ、息を凝らし、腰を沈めて対象をとらえ、握りしめ、つかみ直し、もみほぐすことをくり返す」(P9)。

こうして「ひとり」の世界が立ち上がる。

「ひとり」は孤立とか孤独のことではない。

思想家は時代の先を見据える。

「人口減少時代がやってくれば、ひとりで生きる。ひとりで生きるほかない領域が、空間的にも時間的にも自然に広がってきているはずなのに、そのことを誰も感じていないようだ。感じないふりをしているだけなのだろうか。ひとりで生きる挑戦のときがやってきている、とはいぜんとして誰の年頭にも浮かばないようだ」(P12)。

親鸞と諭吉

「ひとり」の哲学の「ひとり」を考えるとき「日本の風土に実在した二つの歴史的モデル」があるという。親鸞と福沢諭吉である。

第一モデルの親鸞の「ひとり」は「弥陀の五劫思惟の願いをよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』)の「一人」である。「万人」と対比される「ひとり」である。

第二モデルの諭吉の「ひとり」は「一身独立して、一国独立する」(『学問のすゝめ』)の「一身」である。「国家」と対比される「ひとり」である。

カール・ヤスパースの「基軸時代」

カール・ヤスパースは「紀元前800年から前200年の間に、人類の最大の精神変革があったと自説を展開した。そしてそれを「基軸時代」と名づけたのである」(P17)。

「基軸時代」は孔子、ブッダ、ソクラテス、ユダヤの預言者達が現れ「真の人間性」の追求がなされた。

彼らが共通して経験したことをヤスパースが4つにまとめている。

・人間自身の全体像と、その限界を意識した。

・世界の恐ろしさと自己の無力を経験した。

・眼前の深淵に直面して、そこからの解放と救済への希求に駆られた。

・自己の限界を自覚的に把握するとともに、人間の最高目標すなはち超越的な無制約性を経験した。

ヤスパース選集第9巻『歴史の起源と目標』(理想社、1964年)を読んでみたくなった。

カール・ヤスパースの「基軸時代」という思考モデルを日本に当てはめて、山折哲雄氏は13世紀の「鎌倉」時代にみいだす。親鸞を筆頭に、道元、日蓮、その前後に法然と一遍を加えた5人である。

そして、5人の「ひとり」を考えるため「やはり、旅に出るほかはない」(P21)として、紀行を交えて論旨を展開していく。旅の効用を以下にとく。

「旅にでれば、これまでほとんど身につくことのなかった知識の断片が、ひらひらと宙を舞い、飛び去っていくのがみえる」(P22)。

知識のドネルケバブ・モデルのことを思い出した。知識の断片は繋がらない限り意味がない。

親鸞への旅

山折哲雄氏が向かったのは親鸞の足跡を巡る旅だった。親鸞が柏崎市へ流される行路を車で辿ってみることから始まる。しかし、私はその旅の中で別な人物に触れたところが気になったので、次回はそれについて書くことにする。あえて言えば5人の「ひとり」の生き方は読んだことで私の興味は移ってしまったのと、5人を論じるには、この小著では無理もあり、今までの知識の断片がまとめることの邪魔をするのである。本を読んで味わってもらえばよいと思う。

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