壬生寺狂言堂

旅の時間

壬生寺は、節分、5月の連休そして10月の連休に壬生狂言を観るために来た。以前は4月末から壬生狂言をしていたので、29日とかに壬生狂言を観て、夕方は先斗町へ行ったものだった。

京の冬の旅 2017

京の冬の旅で壬生寺の狂言堂が特別公開されたので観て来た。四天王寺と同じ燃えない本堂に入り、本尊の地蔵菩薩を観てから狂言堂へ向かう。狂言堂は壬生狂言の道具や装束が展示されていた。伊藤若冲が奉納した面もあった。「僧」の面である。このユーモラスな面をつけた僧がこの無言の宗教劇である壬生狂言に笑いを誘うのである。壬生大念佛講の皆さんが壬生狂言を伝えていると説明があった。ここでも「講」の話になった。そもそも壬生狂言とは壬生大念佛会の法要のなかで壬生大念佛講が本尊の地蔵菩薩へ奉納するものなのだ。

さて、急な階段を上がる。2階は雨戸が閉まっていた。腰が低いので落ちたら大変だということで締め切られていたのは残念だった。橋掛りから飛込みを見れなかったが、意外に広い舞台を足で確かめることができた。別な階段で降りる。

円覚上人

円覚(えんがく)上人が壬生狂言をはじめたという説明を聞いて、五来重の『高野聖』(2011)を読んだばかりだったので関連箇所を読み直して記憶を新たにしておく。聖の性格のなかで「唱導性」に言及した箇所と大念仏狂言の起源を述べた箇所である。

「踊念仏や念仏狂言などの舞踏・演劇の面でも、唱導をのぞいては語れない。これらは総じて大念仏の名において演じられたのであるが、壬生寺や法金剛院や嵯峨清涼寺で融通大念仏狂言をはじめた円覚十万上人道御(どうぎょ)は、鎌倉時代中期にもっともすぐれた勧進聖の一人であった」(P75)。

注)2017-01-03『高野聖』(2011)

大念仏狂言の起源

大念仏狂言の起源についても五来重が書いていた。説が2つあるようだが、いずれにしても円覚上人がはじめたことになる。

「この大念仏狂言がいつからはじめられたかはあきらかでないけれども、普通は弘安2年(1279)に円覚十万上人道御が嵯峨清涼寺ではじめたとする説(清涼寺本『融通大念仏縁起』)と正嘉元年(1257)におなじ道御が壬生寺でこれをはじめたとする説がある(壬生寺蔵・大金鼓の銘)」(P295)。

五来重は「『如是院年代記』に「正嘉元年二月二十八日、壬生地蔵堂炎上」とある記事と、金鼓銘の正嘉元年五月二十九日との関係から、この年、壬生地蔵堂再興勧進のため、道御は壬生狂言をはじめたものと信じている」(P295)と書いている。

「六斎念仏というものも道御を始祖としなければならないのであって、謡曲「百万」、すなわち「嵯峨物狂」の主人公は、この道御とその母であるほどポピュラーな勧進聖であった」(P295)と付け加えている。

その上で「反面では囚人や貧民の救済もしたほどの庶民宗教家であるのに、いずれの宗派にも属せぬ勧進聖だったため、宗派と宗祖を中心とする従来の仏教史から抹殺されてきた人である(拙稿「融通念仏・大念仏およひ六斎念仏」『大谷大学研究年報』10号、昭和32年)」(P295)と結んでいる。

京の冬の旅 非公開文化財特別公開

1月7日(土)~3月18日(土)

壬生寺 本堂・狂言堂

ただし、1月30日から2月5日は拝観休止

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