五来重『高野聖』角川文庫、2011年
呉座勇一氏の『応仁の乱』(2016)で興福寺の別当を務める貴族の子弟から衆徒や国民にまで話が及んだが、いわゆる国人クラスまでで、武装する最下層の僧侶というわけではなかった。
最下層の僧侶は五来重氏の『高野聖』で扱われていたことを思い出した。解説の上別府茂氏が「高野聖」を簡潔にまとめている。「高野聖は学侶方・行人方と並んで聖方と称されて高野三方の一つをなしたが、聖は「非事吏」「被慈利」とも記されて学侶・行人の下におかれて蔑視された」とした。
比叡山でも学生と堂衆の対立は語られるが、下僧までは語られることはない。五来重氏は勧進と廻檀と宿坊をもって、高野山の経済を支えた聖をその発生から消滅までを辿る。庶民仏教史の一つの試みである。
僧侶と庶民とはほとんど接触はないのは今でも同じだ。庶民の信仰に関わったのは学侶ではない。半僧半俗の聖であった。その意味で「講」も問われなくてはなるまい。
「聖のもっとも重要な機能である勧進は、唱導という手段によってはじめて目的を達することができる。これはまず第一に、勧進に応じて知識(信仰集団)に加入し、講を結成して金品や労力を出しあって、宗教的・社会的作膳をおこなうことの功徳を説くことからはじまる」(P70)。
講が勧進による作膳をおこなうための仕組みであることは分かるがそれ以上の説明はここにはない。
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